信じることと『壁』 | 学生団体S.A.L. Official blog

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 三つの宗教の聖地が集まるエルサレム。私たちはその地に1週間ほど滞在した。その中で現地の人、聖地を訪れるために、また旅のためエルサレムに来た人。私たちは出会い、コミュニケーションをとった。彼らにはそれぞれ信じているものがある。


 ユダヤ教の安息日が始まる夜。多くの商店や飲食店は閉店し、電車も止まり、町から人が消えた。ユダヤ人たちは、聖地、嘆きの壁にむかったようである。私たちもそのあとに続き、聖地を訪れてみることにした。到着すると聖地にはたくさんのユダヤ教徒が集まっていた。聖書を読みながら嘆いたり、円になって歌を歌ったりしていた。それを見ていた私たちに、ユダヤ人の一人が声をかけてきた。この日はすべてのことを神に感謝する日なのだと。それを聞いた私はそのために町のほとんどの機関を閉めてしまうことに対して、少し違和感をもった。彼らに対して「壁」を感じた。

 次の日。まだエルサレムは安息日のため人が疎らな中、今度はパレスチナ自治区に訪れた。分離壁は超えたが、街に入ると活気にあふれ、特に対立しているというような雰囲気は感じられなかった。しかし、イスラエルとパレスチナのことについて尋ねると、急にユダヤ人がやってきて土地を奪われた、というような主張を強くしてきた。この日の前にホロコースト記念館で見たユダヤ人側の主張とは対立するものだ。彼らの間にも「壁」が存在する。


 人と人の間にはどうしても「壁」が存在する。たとえ自分が宗教を持っていないように思っても、これが正しいと信じているものが存在する。イスラエルとパレスチナの問題はこのことを考えたとき、とても興味深いものになる。

 「壁」にどう対処するか。必ずしも「壁」を崩し平坦にする必要はない。いったん線を引き、どのように互いに対話をし合い、有限なものをどう利用するか考えるのもよいのではないか。何を持って平和とするのかは難しいが、すこしでも人々が幸せに暮らせるような世界を願いたい。


 私はそのような思いを心に抱きつつ、明日、エルサレムを立ちハイファに向かう。そこではどのような人に出会うことができるのだろうか。日本にお土産をたくさん持ち帰り、見てきたことについて考えていきたい。

【文責:PM局 1年 宇治橋広将】