なぜカメラを向けるのか | 学生団体S.A.L. Official blog

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あなたは誰かにカメラを向けられたとき、どんな反応をするだろうか?ピースサインをする人、顔を背ける人、無表情の人、おちゃらける人。人それぞれ反応は違うはずだ。誰にカメラを向けられるかによっても反応は様々だと思う。ただ、多くの人は見知らぬものにカメラを向けられることをよくは思わない。今回ドキュメンタリーを撮るにあたり、初めて会う人々に幾度となくカメラを向けた。 撮影用の機材は見た目にもいかつく威圧感があり、嫌悪感を示す人も実際いた。無機質な黒い物体にじーっと見つめられると妙な視線を感じて、居心地の悪さを覚えたことがある人もいるのではないだろうか。


また、デジタル革命によってカメラは長時間の長回しが可能になり、ズームレンズを使えば本人の気付かない位置からでも驚くほどアップで表情を映し出すことができる。これらの技術を上手に駆使することができれば被写体の素の表情を見ることもできるかもしれないし、その人の本性に一歩近づくこともできる。しかしそれは被写体が人には見せたくない一面や、隠しておきたい心の内側、思わぬ素性が暴かれて、その被写体を傷つける可能性も孕んでいる。カメラには暴力装置としての側面もあるのだ。


ではどうして人が嫌がる可能性や人を傷つける可能性を持っていながらもカメラを被写体に向けるのか。


僕がカメラを回す理由は、それによって自分が何か学びたいことがあるということだ。ドキュメンタリーは被写体との対話の連続によって生み出されていく。今回の取材・撮影でも本当にたくさんの人々と出会い、様々なお話を聞かせていただいた。最終的にどんな映画が完成するかはまだわからないけれど、「ボランティア」というワードが重要になってくることを連夜のミーティングで感じていて、ボランティアに携わる方々からもそれぞれ異なる考えがあることを知り、僕たち自身も影響を受けてきた。


被写体がどんなことを考え、それに基づいて行動しているかを知るには、ただ安易に質問を投げかけるだけでは見えてこない。その人が普段どんな日常生活を送っているかというのも大事だと思う。得てして、ちょっとした日常の所作からその人の人間性が垣間見えたりするものである。自分が考える魅力的な被写体のことをもっと知りたいと思ったとき、そうした瞬間を逃さないためにもカメラを向け続けるのが重要なんだと思う。


ただ、被写体を傷つける可能性を持っていながら撮影する側は何も負うものがないという状態では良いものは完成しない。撮影する側も相手にカメラを向ける過程で様々なことに思い悩み、時には被写体から発せられる言葉に傷つき、期待を裏切られる覚悟で撮影に臨まないといけない。


また、ドキュメンタリーは客観性に徹した作品ではない。 ドキュメンタリーが描くものは、作り手が目にし、耳にし、体験した世界である。 インタビュワーが何を質問するか、カメラマンがどんなカメラワークをするかによって現実は、しいてはできあがる作品は変容する。例えばカメラでいえば、カメラマンのフレームワークから外れた世界は観客には届かない。カメラを向けるという行為自体が世界を切り取ることであり、言ってしまえば不要な世界を排除することでもある。なかなか難しい作業だ。このように作る側は表現する段階でおおいに頭を悩ませなきゃいけない。だがそれがカメラを向け続けた被写体に対して作る側が果たすべき責任だと思う。


ドキュメンタリーの魅力は、実在する人物や状況を被写体とすることに独特の面白さや危うさや残酷さが伴うことだと思う。また、映像には字幕や音楽やテロップが付かない限り、確固たる意味は付与されない。最終的にできる作品は、鑑賞者それぞれが違ったことを感じ、考えさせられるような魅力的な作品にしたいと思っている。


2年 川又友輔