世界はなんてアーティフィシャル | 学生団体S.A.L. Official blog

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 先日、学校の行きがけに、歩道を歩いていた時のことである。道路の工事が大きな音とともに行われていた。道路の工事とはいったものの、歩道の舗装で、タイルを並べてセメントで固めるような割に単純な工事だったと記憶している。私はそんな非日常でもない、時々見かけるような光景に、大変に感動してしまった。

「身の回りにあるものは、ほとんど人間に造られているのだなぁ。なんてアーティフィシャルな世界なんだ!」
と思ったのだ。

 学校に行く途中、あるいは通勤中を想像してみてほしい。そこにあるタイル、無数の標識、横にそびえるビルディング、通る人が着こなしている洋服。それらは全て人が造ったものだ。これを読んで、「ふーん、当たり前じゃないか、馬鹿だな」と思う人があるかもしれない。それはそれで構わない。私がそんな単純なことに今まで気付かなかっただけなのだから。

しかしだ、それら身の回りのものを造るときの仕事の手順を本当に知っているだろうか。私たちが使うものの仕組みを理解しているだろうか。その答えはきっと大きな「NO」だ。

大げさな話、原発事故もこの流れで起こったのではないだろうか。
例えば、「液晶ディスプレイ」を例に取りたい。誰もが毎日携帯を使っているけれど、その画面の仕組みには誰も興味が無いし、誰も知らない。仮に、もし仮に、液晶が身体に悪いといって大きな社会問題になったら、その仕組みを皆が研究し始め、悪いところを指摘するのは目に見えている。

私たちの身の回りにあるもののほとんどは人が造ったものだ、という真実。そして私たちはそれを、興味の対象として除外している。食事が出てきて、作ってくれた人に感謝する人がいるが、道を踏みしめることに毎日感謝する人はいない。


この世界は、大勢の人に愛読される絵本のようなものである。ページをめくって一つ一つの絵を楽しむが、原文の一行もみんな読みはしない。 by Paul Johann Ludwig von Heyse


もちろん、こんなことを考える時間は限られているし、興味がなかったり、難しい分野もたくさんある。
でも、改札機を通って、エレベータを使い、電車にのり、携帯を使い、ドアを開け、席に座る、という日常の中のありふれた、見飽きた物体の一つ一つについて、本当に馬鹿みたいに、しかし素直に、考える日があってもいい。


【広報局1年 鶴原頌太郎】