幼い頃、谷川俊太郎さんの「朝のリレー」という詩を読みました。
この詩では、世界中に住む人々が丸い地球を
朝というバトンを手にリレーしているのだ描いています。
私たちの住む地球では、どこかで陽が沈むとき、どこかで朝がはじまっていて、
みんな同じように、朝陽を浴びて毎日をスタートさせているのです。
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この詩を読んだとき、
私は幼いながらとてもわくわくしたのを覚えています。
教科書では、地球はとても広くて大きいものであると習いました。
それぞれの国に住んでいる人々は、違った言葉を話し、違った食べ物を食べ、違った時を過ごしている、と学びました。
確かに、外国へ行くときは長い時間飛行機に乗らなくてはなりません。
確かに、話す言葉も持っている文化も違います。
ですが、本当に国と国との隔たりは大きいものなのでしょうか。
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私は先月、カンボジアに行ってきました。
私自身、アジアへ行くのは初めてで、わくわくする気持ちと恐怖心、いろんな思いを胸に空港を飛び立ったのを覚えています。
長い時間飛行機に乗り、降り立ったカンボジアの空気は、味わったことのない初めての味でした。街の色、におい、人、そしてもちろん言葉。すべてが日本とは違った、まさに”異世界”でした。トイレに行けばペーパーはなく、道路には4人乗りでバイクに股がる家族たち。驚くべき光景で、カメラのシャッターを忙しく押していました。
そんなカンボジアであるスラム街に行ったときのこと。
そこで出会った少女と、日本について話をしたことがありました。
彼女は一度、NGOのMAKE THE HEAVENさんと共に日本へ来たことがあります。
彼女の眼には日本はとてもきれいな国に映ったそうで、人、建物、乗り物、食べ物、すべてに感動を覚えた、そう言っていました。
そして、キラキラした瞳で私を見てこう言いました。
「もう一度、行ってみたい。」
私はこのとき、なぜかとても驚きました。
こんなにも違う国で、こんなにも遠くて、しかもカンボジアと比べればとんでもなく物価が高い国、日本。
そんな日本を彼女は「ダイスキ」といい、もう一度訪れたいという。
そして、私自身にいたっても、水洗トイレがなくて、水道の蛇口から出てくる水も安心して飲むことのできないカンボジアにもう一度、いやもっと行きたい!と思う。
これは一体なんなのだろう?
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世界では未だ、紛争が絶えません。
人と人とが、争い合って殺し合っています。
宗教や価値観、いろんな違いが原因で戦争は起きますが、
今回スタディツアーに行って感じたこと。
それは、どんな国でも、
現地の人と触れ合って、一緒に生活をしてみれば、きっとその国の良さがわかる、
ということ。
そして、その国をダイスキになれるということ。
私自身が感じたことですので、もちろん一個人の意見ではあります。
正しいかどうかはわかりません。
ですが、私はこのダイスキという気持ちを強く信じたいと思います。
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幼い頃、私がこの詩を読んで感じた「ひとつの地球」という感覚。
大人になっても忘れないでいたいです。
そんなことを思った、19歳の夏でした。
「朝のリレー」
カムチャッカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウィンクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている
僕らは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚まし時計のベルが鳴っている
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ
【文責:沼井柚貴乃】