通常、文体は、文章のスタイルという意味で使われる。
何気なく使っていたけれど、体がスタイルを意味するのは大事なことかもしれないとふと思った。
体は、固有の構造を持ち、動きを規定する器のようなものだから、そこから様式という意味を持つようになったのだと思うけれど、つまり、文章は有限性の産物だといえる。
構造もなく、ルールもなければ、ただの思考の垂れ流しなので、文章は成立しないから、当たり前の話だけど、この「限りがある」ということは常に念頭に置いておかなければならない。
私たちは何に縛られているか。
私を規定しているものは何か。
自由でいるためには、何が必要で、何が不必要か。
内容は、スタイルによって変わる。
スタイルによって、初期の欲動が、叩かれ、磨かれ、あるいは熟成され、変貌する。
それがまたスタイル自身に波及していく。
技術の問題でもあるし、自己発見、そして自己鍛錬のプロセスでもある。
書くことについて考えることは、だから生きることについて考えることでもあるに違いない。
自分のスタイルを見つけること。
整体においての体癖や体勢について考えることもまた同じだ。
文章の話にまた戻ると、その人の身体性がわかる言葉は、内容はともかく、その人の表現として成功だと思う。
内容は立派で大層なものでも、身体の見えない文は信用ができない。
それは一体誰の言葉?と聞きたくなる。
自分の話す言葉、書く言葉、僕自身の身体がみえるかどうか。
それが上手くいっているのか自分ではわからないけれど、常に自覚的ではありたい。