普賢岳火災流33年 | junとさらくのブログ

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 葉タバコ栽培が盛んな普賢岳山麓の畑

 

 平成新山山頂付近からは今も水蒸気が吹き上がっている

 

 1991年6月3日に43人もの死者、行方不明者が出る前は、土ぼこりのようなものと思われていた火砕流。

 

 実際には600度以上の火山灰や火山ガスが火口付近から高速で落下して来るというものだった。

 

 市民がパニックになるのを防ぐためにという理由から、火砕流についての情報を小出しにした研究者たち。

 

 1902年カリブ海の島で起きた火砕流では3万人が死んだということは知っていたのに、発表の中に入れなかった。この事実だけでも広めていれば、誰にでも死に至るものであることがわかったのに。

 

 

 発生当日、多くの農家は葉タバコ取り入れのため立ち入り禁止区域内の畑に行く予定だったという。それが市議会議員選挙の当選祝いが行われることになり、市街地にとどまったことが幸いして犠牲者の数を減らした。

 

 あぶないから入るなと言われても、どうあぶないのかわからなければ説得力はない。

 

 その後の火災流で焼けてしまったが、今は被災校舎として残されている旧大野木場小学校。この大火砕流の下で多くの人が亡くなった。

 

 研究者の発表が腑に落ちず、記者会見後に直接聞きに行って火砕流の本当の怖ろしさを知った2社のマスコミだけが難を逃れた。

 

 

 

 マスコミの報道で被害の大きさが全国に知れ渡り、多くの義援金が集まり復興に大いに役立った。失った家を新築できた人たちも多い。

 

 約200年後まで語り継がれるだろうか、あの日の悲惨が。

 

 掲載した当時の写真はがまだすドーム(雲仙岳災害記念館)の展示を撮ったもの。普賢岳、畑、住宅、水無川の写真は去年撮影。