海軍、支那事変記念写真帖 ⑥ | junとさらくのブログ

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さらくSALAKUは船名です。

 人間は太古より天空に憧れを持った

 

 大空を意のままに、自由に飛び回れたらどれほど素晴らしいことか

 

 インドネシアへ行くために乗った飛行機左側窓から見えた奄美大島(左側)と加計呂麻島(右側)。 

雲とは別に白っぽいところがあり、これは古仁屋だろう。

 以前、船で行ったことがある。

 

 コンデジを向けている最中、画面に突然何かが飛び込んで来た

 

 

 逆方向へ飛んで行くANA機だった

 

 

 飛行距離と所要時間から推定すると、こちらの速度は約600キロ、

ANA機も同じ速度とすれば合計1200キロの速度ですれ違ったことになる。あわててカメラを後方へ振っても撮れたのはこの1枚だけ。

ブレってしまったのが残念。このあとすぐに見えなくなった。

 

 ズームレンズは少し詰めていた程度でこれくらいの大きさに写ったということは、距離1000m以上か。ビックリしたこともあってかなり近いと感じた。機体の見え方から、高度はこちらの方が50m~100mくらいは高かったか。

 

 

 先の大戦初期に海軍が使った九七式飛行艇(通称 九七大艇)。

海軍初めてのエンジン4発搭載機で、偵察を主目的に設計され日本から途中無給油で赤道越えの飛行が可能だった。

 

 もっぱら水上から飛び立ち(離水)、水上に降りたため(着水)、タイヤはなかった。

 

 今では知る人も少ないが、先の大戦後期に登場した米軍のB29爆撃機に匹敵する大きさの大型機だった。全部で181機もつくられた。

 

 ただエンジンがB29の半分程度の出力しか出せなかったため、搭載できる爆弾は少なかったし速度もずっと遅かった。長距離偵察や司令官、参謀など高級将校の日本と前線などの移動には活躍したが、犠牲も大きかった。

 

 

 これはパラオにあった日本海軍の飛行艇基地。

3機の九七大艇が写っている。手前側に海に降りるスロープが見えている。

 

 この飛行艇には垂直尾翼が2つあった。幅40mという機体のスケールがわかる。

 

 その主翼に搭乗員たちが座って撮られた写真。九七大艇には9人が搭乗した。

 

 

 

 2人の操縦員とは別に機長がいて、操縦席後方に座席があった。

操縦席前方には偵察員の席があり、航法士ナビゲーターの役割も果たした。航空地図を広げて航路を記入するための机もあった。

 

 機体後部には18人が座れる座席と、4人分のベッドまであった。

 

 最長25時間の飛行ができたので、トイレ、冷蔵庫もあった。

 

ここまでの白黒写真は「奇蹟の飛行艇」北出大太著 光人社1979年発行(第17刷)より接写 パラオ基地の写真は戦闘機搭乗員だった坂井三郎撮影とあり

 

 

 「支那事変記念写真帖」に話しを戻すと、その中にこの写真があった。

 熱帯で茂る木々を背景に、ライフジャケットやゴーグルを着けた9人。

後列右から2人目は日本刀を持っている。出撃間近の航空機搭乗員たちである。

 

前列右端は、顎の緩やかな骨格からこの写真帖の持ち主であった青年であることがわかる。