誰かに認めてほしいってのは常に常にだれもが内心思っていることで。
かくいうわたしだって「人の評価は気にしない」と日頃嘯きつつも、その実いつだって自分の価値を、存在を、誰かに認めてほしいと思って暮らしてる。
自分が自分である、という確信自体、結局のところ自分ひとりでは確認する手段がない。
鏡に映ってる自分が自分であるなんて保証はどこにもなくて、脳内で考えてることだってアウトプットしなければ形が見えてこない。
いくら脳内で考えたって発信しなければ何も「動かない」。
そして発信するためには「相手」と「手段」が必要で。
「手段」はなんでもかまわないが、ありがたいことに人間は言葉を持っている。
共通の言語を操れれば意思の疎通もそれだけ多くできるわけで(もちろん言語が共通だからって頭の中身が共有できるとは限らないが)、それがためわたし個人としては共通の母国語を持っている人のほうがより「存在を認めてもらいたい相手」としては望ましい。
認めてもらう、ことで喜びを感じるというのは、畢竟、自分の存在を許されている、と自身が「感じる」ことで。
本当に相手が認めてくれること「自体」が大切なのではなく、誰かに認めてもらえていると「自身で感じる」ことこそが重要なのかも。
…この話まだまだめっちゃ長くなりそうなんだけどしばらくあんまり時間取れないから、時間あるときにぽつぽつ投下してくわ。
たる