私にとって昭和の街といえば新宿だ。これは1人ひとり違って当然だろうが、恐らく戦後世代の、一番多い思い出の地は、上野ではあるまいか?

東北から出稼ぎにやってくる男たちも多かったが、集団就職列車に乗って、一旗あげたい!という若者たちも多かった。
 
「ああ上野駅」の歌手・井沢八郎をはじめ、「盛岡ブルース」の青江三奈など、何人もの歌手が、上京組の寂しさを、歌で癒したものだった。一時は東北、北海道出身の歌手で、ベスト10が埋まったこともあった。

私は上野とは、ほとんど関係がなかった。学友も新宿組が多く、それがのちに仕事上でもプラスになっていったのだ。

昭和は64年までつづいたが、大学卒業の昭和28年までは新宿中心で、就職してからは池袋が中止になった。後年は銀座派になったが、面白いのは作家たちだけでなく、知り合う人も新宿、池袋、銀座が多かった。

これが私にとって幸運の糸口になったことは間違いない。作家でもバーのママでも、経営者でも、年齢と共にこの周辺の有名人たちと知り合っていったからだ。

面白いのは、知り合う場所だった。新宿は作家たちの一部とは飲み屋街で会ったが、多くは自宅だった。

これによって、中央線、西武新宿線、小田急線などの沿線に住む有名人は、ご自宅に伺うことになり、時代小説でも現代小説でも、家族小説を書いていただくことになったものだ。これは女性読者をふやすのに、大きく貢献した。

就職先の関係で、講談社、光文社の連中は音羽、護国寺の近くなので、どうしても池袋に出ざるを得ない。これがのちに江戸川乱歩先生、山手樹一郎先生や、西武グループのトップ、堤清二社長と親しくなる縁を生んでくれたのだった。

たまたま私が中野に家を構えたので、堤さんもわが家に来やすかったのだろう。子どもを連れて遊びに来たこともある。これにより、のちにプリンスホテル系を使っていた女性皇族と、おつき合いをするようになった。

私にとって「街は人なり」ということができる。誰と知り合ってきたか、というより、どこで知り合ったか、のほうが大切だと思っている。

それだけにどこに住むか、どこで遊ぶか、どこに行くかによって、その人の一生が決まるのではないか? 私の幸運は、この考え方を早く持てたことに尽きると、思っている。


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2024年は間もなく終わるが、明けて2025年は昭和100年に当たる。「昭和百年」と書いたほうが、なんとなくぴったりくるが、私は昭和6年生まれなので、1世紀近く生きてきたことになる。

この間、約16年は戦争に明け暮れたが、その後の80年強は戦争こそなかったが、世界中が平和と呼べる時代は、極く少ない年月だった。

特に2000年代に入ってからは、かつての米ロ(旧ソ連)の対立が、米中ロの対立となり、さらに複雑な東西関係が広がったことで、いつ第3次大戦が起こっても、不思議ではない。

そこに「人間対AI」という、考えもしなかった構図が浮かび上がってきたことで、地球はさらに複雑な様相を呈してきたことになる。

そうなると、何の話をしていても、最後は米中の戦争の話になるか、人間対AIの話になってしまうのではなかろうか? あまり明るい話にお目にかかったことがないような気がする。

だからこそ小説や歌、芝居が必要だ、という人もいるが、まさにそうかもしれない。現実の苦しさから逃れるには、架空の物語をつくるしかないからだ。

かつて寺山修司という歌人・劇作家がいた。私より4歳下だったが、40年も前に亡くなってしまった。

彼は苦しさから逃げるには、下駄をはくといいと、私と会うときは、いつもカランコロンと、下駄をはいてやってきた。彼の場合は有名な詩人でもあり、芝居の構成者でもあったので、この下駄姿が似合ったのだが、たしかに下駄姿は浮世離れした人間に見える。

すると面白いことに、話すことも一般人と、まったく異なるテーマになってくるのだ。私が彼と会いたかったのは、そんなのんびりした人間性だったからかもしれない。

また彼は、兄貴分の私には、何でも話せる気易さがあったのだろう。いまの現代人は、安心して、心の中を打ち明けられる友人が、いないのではあるまいか?

私の幸運は、お互いの心の中を打ち明けられる仲間や友人、先輩が大勢いたことに尽きる。いや、後輩もいたし、もちろん男たちだけでなく、女性も多かった。

それに私の兄姉たちも大勢いた。漢字や表現を教えてくれるのだが、これが小学生にしては、むずかしい知識を貯える基礎になったのだと思う。

私にとっては、昭和という時代は、あたたかい年月だった、と懐しく思い出されるのだが。

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『地球の歩き方』が、中国の歩き方を大きく改訂した。

これまでの『中国編』は、1984年に出たもので、それに手を加えたものだった。ところが他の国と違って、中国の場合は、コロナ禍以後大きく変わった。お店などもほとんど変わったといってもよさそうだ。

そこで全面的に内容を変更したという。それほど中国社会が変わったということだろう。また日本人旅行者に「気をつけなければいけない行動」も教えている。

「八一という文字のマークは、軍関連の施設なので、近づいてはいけない」「デモや政治、軍事、宗教関連の写真や施設に関する記事を持ち込まない」など、きびしく注意したほうがいい。

私は宗教関連の書籍を多数書いていたり、チベットの僧侶とのつき合いもあるので、中国旅行はやめたほうがいいと、アドバイスを受けている。

ともかく常に監視されていると思わないと危険だ。日本語でも反中国の話をしていると、トラブルのもとになると、この本の中でも注意している。

また中国では、デジタル決済やSNSを使っての予約など、日本より進んでいる一面があるので、高齢の日本人ではむずかしそうだ。

11月30日から短期ビザが免除になったので、年末年始は旅行のチャンスだが、トラブルに巻き込まれないようにしないと、楽しい旅行が絶望的な旅に一変する。

中年以上の日本人だと、中国の怖さを知っているが、若い男女はその点、自分中心主義なので、特に写真には注意したほうがよさそうだ。

それにしても隣国だけに、なるべく何回も旅行したほうがいいだろう。


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『70歳からのボケない生き方』
長寿の源は食料にある事は間違いない。それというのも、偉い人たちは、その時代と時期に合った、元気の源を食べているからだ。数え年75歳まで生きた徳川家康は麦飯と味噌汁を好んだという。ただし一般庶民が好んだ漬け物は、塩分を少なくしていたらしい。

豊臣秀吉はニンニクの皮をむかずに食べていたようだ。数えで90歳まで生きた葛飾北斎は、そばが好物だった。そばのルチンが酸化を防いでいたのだろう。卑弥呼(ひみこ)は80歳くらいまで生きたといわれるが、刺身、つまり生の魚を食べていたという。

100歳の双生児、きんさんぎんさんは味噌汁に加え、まぐろ、カレイ、ひらめの刺身を好んで食べたといわれる。世界の国々で、こういう食品を何千年も食べつづけてきた国民はいない。

92歳まで生き抜いた森光子さんは、肺結核を患った経験から、毎日の食卓に鶏卵を加えていた。卵には「ビタミンCと食物繊維」以外の栄養素を多く含んでおり、とりわけ卵黄に含まれている「レシチンとコリン」という成分が、記憶力を増すという。

ここに挙げた食料は、いまでは庶民の食卓に、載っているものが多い。私もこれらをほとんど毎日のように、食べたり摂取しているが、だからこそ長生きになるのではないか? 中でも味噌汁と魚料理は、多くの日本人の食卓に毎日載っているのではなかろうか。

だから日本人は、どの国よりも世界一の長寿年齢を誇っているという学者もいる。私自身もほぼこれらを毎日、食べている。そばと刺身と卵は、中でも好物なので、これらが長寿の素といえるかもしれない。


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『70歳からのボケない生き方』
皇族の死に際しては、ご遺体を納める儀式を、御舟入りという。

一般人の納棺に当たる表現だが、仏教にも補陀落渡海(ふだらくとかい)という言葉がある。今回この「御舟入り」は三笠宮百合子さまの死で使われたが、皇族は仏教ではないので、神道の表現なのだろうか?

もともとは観音菩薩の浄土である、補陀落山での往生を願い、多くの僧侶や修行者が小さな舟に1人で横たわり、中世の熊野や土佐の海から、西に向けて渡海したといわれている。

もちろんこれは伝説として伝わっているものだが、昭和の年代にこれを実行した僧侶がいて、大きな話題になった。

このときは覚悟の自殺のようなものだが、わかっているだけでも、平安期から江戸期にかけて、二度と帰らぬ死出の旅に出た人だけでも、50例以上あるという。

那智熊野からの渡海を描いた、井上靖の『補陀落渡海記』という短篇小説は、補陀落信仰の根本道場である「補陀落寺」の住職、金光坊が主人公だ。

この寺の住職は3代つづけて、61歳(現在の60歳)になったら、小舟に乗せられて補陀落寺へ渡海する運命になっていた。

井上靖はその冷静な筆で、この運命を書きつづけていくのだが、この当時使われていた補陀落渡海船は、現物がまだ遺されている。

渡海船といっても、海上で沈むことを考えられているものだけに、小船であり、その船上に僧侶を横たえる小屋らしきものが、設置されている。

現実には、海上で沈まなければならないものだけに、船底には小さな穴が開けられていたという。あるいは重石を身に付けて船内に横たわった、ともいわれる。

本来ならば小さな船は舟と書くべきだが、舟にしては、いろいろ備えつけられていたので、記録には小船という表現になっている。

同じ御船入りでも神道と仏教では、中世から大きな違いがあったようだ。


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