SDGs再考 | 蒼空のあかね雲

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詩や、日々思ったことを書きます。

先の賞味期限の問題でもそうだが

そもそも資本主義社会において、SDGs運動は、相いれないばかりか

矛盾以外の何物でもない。

それでもなぜ、SDGsが叫ばれるようになったのか?

自動者産業をたとえてみよう

 

近年、ハイブリッドカーから電気自動車への切り替えが激しい

けれど、それを購入する人たちが増えれば、

当然電気自動車を作るための

電池などの素材となるレアアース金属が不足する。

とてもじゃないが、車を変える人の需要を満たすことなどできそうにない。

そこで、中古車などから分解して素材を再利用しようというわけだ。

つまりは、生産を上げれば上げるほど、資源が枯渇し、

そのうち電気自動車を作れなくなることがわかってきた。

そこでSDGsである。

これは物を作り続け、国民総生産を上げ続けることが困難であることを認めたことになる。

資本主義社会が成り立つのは、

どこからか際限なく資源が入ってくることが前提となる。

従って、それを無視した生産活動はいずれ破綻をきたす。

金融緩和も同じような末路をたどることになる。

政府の積みあがった借金は、インフレでお金の価値が極端に下がるか、

国民の税金を増やし続けなければバランスを維持できなくなる。

 

SDGsは資本主義社会の悲鳴から生まれたるそれゆえに、

資本主義と相反する活動であるのは当然である。

残念ながら、この取り組みは中途半端なまま、終わるのだろう。

なぜなら近いうちにこの社会システムが崩れていくことによってしか、

地球資源の問題は解決しないのだから。

 

増え続ける人口もそれを支える地球資源が枯渇していくのと同様、

単純な理由であることが、現代人は気づき始めた。

まさに現代資本主義社会が持続可能でないことへの

危機感からSDGsの取り組みは生まれたといって、

いいのかもしれない。