LINEのやりとりに、句読点を付けると
『かしこまっている』という印象や威圧感、
怒りの感情を読み取ってしまうのだという。
また、たとえば「いいと思うよ笑」なら賛成だが、
「いいと思うよ。」だと気に入らないけど好きにすれば?
というニュアンスになり、
それを受け取る側も共有しているという。
「若い世代が句読点を廃し、短い言葉でやりとりする背景には、
タイパの意識が強い世代であることも大きい。
無駄なやりとりはせず相手を待たせない、ということも彼らにとっては正義だし、気遣いでもあるわけです」
一方で大人世代にとっては相手が読みやすいように句読点もつけながら、
長文になってもきちんと伝える。それが相手への気遣いだ。
つまりは、双方の気遣いのやり方がすれ違っているだけ
また、「Z世代は動画コンテンツを倍速で視聴することを好む傾向がある」といわれる。また、動画を見ながら別の作業も進める「ながら見」も、「タイムパフォーマンス」を意識した行動様式といえる。
さて、社内のメール文ひとつ送るのに、
こうした世代間のずれがあるというのは驚きだ。
コスパからタイパへ
つまり限られた時間を効率よく処理する。
相手とのコミュニュケーションも少ない文字やスタンプで、
自分の感情表現までもそこに込めようというのだ。
ただ、こうしたLINEのやり取りには限界がある。
言葉を単に用事伝達の手段ととらえればそれでもよいが、
恋文のような手紙に思いをしたためて書くという文章表現は逆立ちしたって無理がある。
映画やドラマの倍速鑑賞も見たいものがあり過ぎるからこそ必要な機能だったりするけれど、本当に味わって観たいものは、無駄と思われる余韻に浸る必要があり、じっくりみないといけない。
Z世代に代表される、今の若者はツールとしてのSNSに慣れたせいで、
うまく短い文言で意思を伝えるのは上手だが、
相手に早く返事しないといけないとか、
深く考える機会を彼らから奪ってきている。
その結果、じっくりと考えないとできないこと、
例えば詩的表現とか、
一つの物事を突き詰める創造的な研究とかが苦手になってきている。
実際、本を読んだりするよりも、動画や検索ネットから借りた文章をコピペして、それを読むことで、なんだかわかったような気がしてしまう。
実際は、一つの問題提起に対しては、いろんな人の反対意見やら賛成意見を聞いてから、自分の中でしっくりといくものを読み進めて選別消化させる時間が必要なのだ。そういう意味でも現代の人たちは(大人も含めて)物事を深く考えなくなってきたのではないだろうか?
それについて世代間の溝を単に「価値観の違いだ」といって片づけてよいのだろうか?
デジタル社会になって物事があわただしくなってきた。ひと昔前なら吟味できた情報も、いまや個人で処理しきれない情報が毎日のように入ってくる。それに対して、確かに時間の効率化を図らねばならない。
けれど、当の人間の脳がIT社会に見合った情報処理能力を短期間のうちに獲得したとは到底思えないのだ。
つまり、知るべき情報が多すぎてなんらかのミスや、うっかり物忘れ、スケジュール通りに動くことのできないストレスが、現代人にはのしかかってきているのではないか?
社会が個人に求める処理能力を超えるからこそ、タイムパフォーマンスなどという効率性が求められる。しかも頭の中にはいちいちその内容を精査する余裕もなく、次々とインプットされる情報の一方で、大事な記憶も脳から消えてしまう結果となっているのではないか。
つまり、現代人は取り入れたい情報がありすぎて、それを貪欲に身に着けようとしても人間の脳にはそれを整理するいとまもなくストレスを抱えやすくなっているのではないか。
物事を理解していく過程は睡眠も含めた時間を要する。
そうした時間さえ削ってしまったら却って脳の働きが低下し、ストレスからケアレスミスをしたり、感情がコントロールできなくなってしまう。
私たちは便利な文明の利器を得ながら、
必ずしも脳がついていっていないと思う。
そのことが、逆に人々から深い理解力を妨げてきているようにしかみえない。
ただ自分の欲求と感覚に近い言葉を選び、ツイッターなどでは深く考えて書くことも面倒くさいほど、そのときの感覚や気分をLINEで伝達する。
こうした文明の便利な伝達手段は
他の人々がどう思うか? とか考えるいとまをなくし、
話題についていけないことからくる孤独感を恐れている
そこには深いつながりの持つ友人が少ないか
皆無に近いからなのかもしれない