茂りあふ さくらがしたの ゆふすずみ 春はうかりし
風ぞまたるる
花山院長親
(しげりあう さくらがしたの ゆうすずみ はるは
うかりし かぜぞまたるる)
意味・・夏、葉が茂りあう桜の木の下で夕涼みをして
いると、春は花を散らすものとして疎(うと)
ましく思われていた風が、今は待たれること
だ。
注・・うかり=憂かり。つらい、いやだ。
作者・・花山院長親=かざんいんながちか。1429年
没。室町時代の前期の公卿。
出典・・新葉和歌集・239。
- 前ページ
- 次ページ
来むと言ふも 来ぬ時あるを 来じと言ふを 来むとは
待たじ 来じと言うふものを
坂上郎女
(こんというも こぬときあるを こじというを こん
とはまたじ こじというものを)
意味・・あなたが来ようと言っても来ないですっぽかす
人なのに、来まいとおっしゃるのにひよっとし
たら来るかしらと待ったりはしますまい。来な
いとおっしやるんだもの。
「来」を繰り返す戯(ざ)れ歌です。
心の底ではもしや「来む」かという待つ気持ち
があります。
作者・・坂上郎女=さかのうえいらつめ。生没年未詳。
大伴旅人は兄、大伴家持は甥にあたる。
出典・・万葉集・527。
大の字に 寝て涼しさよ 淋しさよ
一茶
(だいのじに ねてすずしさよ さびしさよ)
意味・・一人暮らしの気楽さに、だれに遠慮もいらず、
大の字になり寝てはみたものの、やがてたまら
ない寂寥(せきりょう)が、投げ出した足の先か
らじりじりと背中に這い上がってくる。
父の遺(のこ)した家屋敷を継母や義弟たちと折
半して、一茶もようやく一家の主となることが
出来た。しかし、相も変らず不自由な独身生活
が続いた。この頃に詠んだ句です。妻を迎えた
のは翌年の52歳の時です。
作者・・一茶=小林一茶。1763~1827。信濃(長野)の柏原
の農民の子。3歳で生母に死別。継母と不和の
ため、15歳で江戸に出る。亡父の遺産をめぐる
継母と義弟の抗争が長く続き51歳の時に解決
した。52歳で結婚した。
出典・・七番日記。
年のはに かくも見てしか み吉野の 清き河内の
たぎつ白波
笠金村
(としのはに かくもみてしか みよしのの きよき
かわちの たぎつしらなみ)
意味・・毎年毎年こうして見たいものだ。ここ吉野の
清らかな河内の渦巻き流れる白波を。
吉野川の爽快な白波を詠み離宮を讃えた歌で
す。
注・・年のは=毎年。
河内=川の周辺に開けた生活圏。
作者・・笠金村=かさのかねむら。生没年未詳。723
年頃活躍した宮廷歌人。
出典・・万葉集・908。
春日山 朝立つ雲の 居ぬ日なく 見まくの欲しき
君にもあるかも
坂上大嬢
(かすがやま あさたつくもの いぬひなく みまくの
ほしき きみにもあるかも)
意味・・春日山に、毎朝雲が立ち上るように、
一日も欠かさずにお目にかかりたいと
思うあなた様なのですよ。
恋の歌です。
作者・・坂上大嬢=さかのうえのおおいらつめ。
生没年未詳。大伴家持の正妻となった。
出典・・万葉集・584。
父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言ひし言葉ぜ
忘れかねつる
丈部稲麻呂
(ちちははが かしらかきなで さくあれて いいし
ことばぜ わすれかねつる)
意味・・お父さんお母さんが、かわるがわるこの頭を
掻き撫でて、達者でな、と言ったあの言葉が
今も忘れられない。
防人として任地に行って、別れ際の父や母の
しぐさや言葉を通して、望郷の思いを詠んで
います。
注・・幸(さ)くあれて=幸(さき)くあれと。東国の
方言。
言葉ぜ=言葉ぞ。東国の方言。
作者・・丈部稲麻呂=はせべのいなまろ。東国の防人。
出典・・万葉集・4346。
都だに 寂しかりしを 雲はれぬ 吉野の奥の
五月雨のころ
後醍醐天皇
(みやこだに さびしかりしを くもはれぬ よしのの
おくの さみだれのころ)
意味・・五月雨の季節は都にいてさえも、陰鬱で寂しい
思いがするのに、まして山里深く、雲が晴れる
間もない吉野の奥にいる我が身には、いっそう
侘(わび)しさが募るばかりだ。
五月雨の陰鬱さを詠んでいるが、南北朝の対立、
武家と朝廷との対立、そしてその後に都を追わ
れた天皇の侘しい心を詠んでいます。
作者・・後醍醐天皇=ごだいごてんのう。1288~1339。
96代の天皇(南朝)。北条氏(鎌倉幕府)を打倒し
建武の新政を成立するが足利尊氏(室町幕府)に
より吉野に追われた。
出典・・新葉和歌集・217。
思ふこと なくて見まほし ほのぼのと 有り明けの月の
志賀の浦波
藤原師賢
(おもうこと なくてみまほし ほのぼのと ありあけの
つきの しがのうらなみ)
意味・・何の物思いもなく見たいものだ。ほのぼのと明けて
ゆく有明の月の下、寄せては返す志賀の浦波のこの
美しい光景を。
1331年後醍醐天皇は北条氏討伐を企てたが、計画が
漏れて奈良に退散した。近臣の師賢が僧兵を味方に
つけようとしたが失敗。その帰り路で詠んだ歌です。
作者・・藤原師賢=ふじわらのもろかた。1301~1332。32
歳。後醍醐天皇に重要された。正二位大納言。
出典・・新葉和歌集。
待つ我は あはれやそぢに なりぬるを あぶくま川の
とをざかりぬる
藤原隆資
(まつわれは あわれやそじに なりぬるを あぶくま
がわの とおざかりぬる)
詞書・・橘為仲朝臣が陸奥守の時、任期を延長された
と聞いて詠んだ歌。
意味・・あなたの帰京を待っている私は、ああもう八
十歳を迎えたというのに、あなたのいる阿武
隈川が遠いように、会う時はまた遠くなって
しまったことだ。
注・・やそぢ=八十。
あぶくま川=宮城県・阿武隈川。「逢ふ」を
掛ける。
橘為仲=1085没。正四位下。陸奥守。家集に
「橘朝臣集」がある。
作者・・藤原隆資=ふじわらのたかすけ。1050年頃の
人。越前・武蔵守。従五位下。
出典・・金葉和歌集・581。
おほわだ波 うちあがり 岩をのりこゆる そのくりかへし
心に沁む
鹿児島寿蔵
(おおわだなみ うちあがり いわをのりこゆる その
くりかえし こころにしむ)
意味・・湾の中で波が岩に打ち上がり、乗り越えて白波を
立てている。その永遠の繰り返しを思い、顧みる
と、人の存在する短い時間をしみじみと思うのだ。
老妻を失った晩年の作です。
注・・おほわだ=大曲。海の湾入した所。
作者・・鹿児島寿蔵=かごしまじゅうぞう。詳細未詳。