私は子どもの頃いじめを受けていました。

このブログでは虐待のことには触れても、いじめについてはほんのちょっとしか触れていません。
いじめは、そのときによって関わっている人との関係が変わっていくので、うまくまとめる自信がなかったのです。
でも、いじめられても必死になってもがいて、いろんなことを考えて、
私は自分の学校生活を取り戻しました。

そんな子どもの頃の自分の頑張りを書き残しておきたい。
そして、辛い思いをしている人や周囲で支える立場の方に寄り添えればと思い、
今日から5日間かけて、毎日ちょっとずつ書いていこうと思います。


   



小学2年生の2月。

私は親の離婚で引っ越すことになり、千葉から青森の小学校に転校した。

最初の頃は、「転校生だー!」と机を囲まれ、いろんな質問をされたり、
学校のことを教えてくれる子がいたりして、
なんだか人気者になったようで、嬉しかった。


だけど1か月ちょっとで3年生になり、クラス替えによって状況は一変。

「転校生」ということでチヤホヤされる期間は終わり、異物として見られるようになってしまった。


千葉で生まれ育った私は当時標準語しか話せず、
「話し方がムカつく」と言われたり、「千葉語!」とからかわれるようになった。

津軽弁が当たり前の世界で、私はかなり浮いた存在だったんだろう。

家が貧乏で服をあまり持っておらず、洗濯もちゃんとされていないしわくちゃな服を着て学校に行くと、
「汚い」と避けられたり、「なんで買ってもらえないの?」と聞かれたり。
(後者は本当に疑問なだけだったのだろうけど)

その時は、「汚い」という言葉や貧乏について触れられるのがすごく恥ずかしくて、辛かった。



ハルジオン

貧乏草とも呼ばれるけど、私は可愛くて好きだった。



小さい頃から太っていて、運動神経も悪かったから、「邪魔」とか「のろま」と言われて、
体育でチーム分けをするときは、私の押し付け合いでジャンケンをするのがお決まりだった。

あの空気は本当に嫌だった。

たまに話しかけてくれる子はいたし、家が近所の子は一緒に帰ったりすることもあった。
でも、集団で何かをするというときは仲間に入れてもらうことはほとんど無かった。

お昼休みは、仲間はずれにされていると自分で認識するのが怖くて、
本を読んだり校内をひとりで散歩したりして、「自分でひとりを選んでいるんだ!」と強がってみせた。

みんなが楽しそうに遊んでいるのを見ると正直羨ましかったけれど、
そんな思いが募ると同時に、"みんな"に自分が入っていないことに慣れてしまっていた。

それでも、泣いたりすることはなかった。

なにか言われても、仲間に入れてもらえなくても、ニコニコ笑ってやり過ごす。

そういうとこが気持ち悪いと言われたこともあったけれど、
笑う以外の選択肢が私には思い浮かばなかった。
泣いて面倒くさいやつだと思われて、
完全に見捨てられてしまうことを恐れていたのかもしれない。

先生に助けを求めたりもしなかった。
誰かに嫌われることは恥ずかしいこと、そう思い込んでいた。
そんなことないのにね。


親は論外だった。
私の母親は誰よりも私を責めて、傷つける。
そんな人に相談なんて出来るわけがなかった。


そうやってひとりで抱えているうちに、私の心は少しずつ見えない傷を負い続け、
次第に壊れていったのかもしれない。


小学4年生の夏休み明け、私は急に学校に行けなくなってしまった。