今年の春はおかしな陽気ですね。

誰もが体調も頭もどうかなりやしないか?心配です。

 

また今日も。

気がつけば「萩原朔太郎」の詩集が3冊。

一番左は昭和27年発行の父のもの。

万年筆のサインもあった。

あとの2冊(中は私のもの昭和51年発行。右は娘の1999年発行のもの)

「発見」

私が中学から好きだった萩原朔太郎を父も読んでいたのだ。

意外だった。

 

 

私の頭にこびりついて離れない「死なない蛸」を

三者三様の想いで違う時代に読んだということか。

 

萩原朔太郎  

 

「死なない蛸」(「宿命」の項目に収録)

ある水族館の水槽で、ひさしい間、飢えた蛸が飼われていた。
地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻瑠天井の光線が、いつも悲しげに漂っていた。

だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れていた。
もう久しい以前に、蛸は死んだと思われていた。
そして腐った海水だけが、埃っぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまっていた。

けれども動物は死ななかった。
蛸は岩影にかくれていたのだ。
そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、恐ろしい飢餓を忍ばねばならなかった。
どこにも餌食がなく、食物が尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。
まづその一本を。
それから次の一本を。

それから、最後に、それがすっかりおしまいになった時、今度は胴を裏がえして、内臓の一部を食いはじめた。
少しずつ、他の一部から一部へと。
順々に。

かくして蛸は、彼の身体全体を食いつくしてしまった。
外皮から、脳髄から、胃袋から。
どこもかしこも、すべて残る隈なく。
完全に。

ある朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空っぽになっていた。
曇った埃っぽい硝子の中で、藍色の透き通った潮水と、なよなよした海草とが動いていた。
そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかった。
蛸は実際に、すっかり消滅してしまったのである。

けれども蛸は死ななかった。
彼が消えてしまった後ですらも、なおかつ永遠にそこに生きていた。
古ぼけた、空っぽの、忘れられた水族館の槽の中で。
永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――ある物すごい欠乏と不満をもった、

人の目に見えない動物が生きて居た。

(自宅本「萩原朔太郎詩集 」岩波文庫 昭和27年発行版より 転記しました)

「死なない蛸」の衝撃は例えば私に雷が落ちたようだった。

 

そして今日は我が家で三世代にわたり読まれた「萩原朔太郎詩集」に

何かが宿っているような気がしてゾワっとした。

「死なない蛸」

正にそれだ。

見えなくてもそこに確かに居るのだろう。

死なない蛸が今そこから這い出して、

なんだか私の心で泣いているような気がする。

私の心までは食べないで欲しいと強く願う。

 

そうやって今日は萩原朔太郎の見えない糸が結ぶ不思議な感覚に囚われた。

 

これも春の芽が出たり凹んだりする陽気のせいだろうか?

 

本日もご覧いただき感謝申し上げます。