本宮の地に神が祀られたのは、今からおよそ2000年前、第10代崇神天皇の世といわれている||
熊野詣が盛んであったのが、平安時代の中期から鎌倉時代にかけてと伝えられている。延喜7(907)年、宇多法皇以来、法皇上皇の御幸も盛んで白河上皇の9度、鳥羽上皇の21度、後白河上皇の34度、後鳥羽上皇の28度と多くを数えたが、弘安4(1281)年、3月、亀山上皇の御幸をもって終結をつげている||
江戸時代に入って、元和5(1619)年、紀州藩主徳川頼宜が熊野三山の復興に力を入れ、再び「蟻の熊野詣」の最盛期を迎えることができたとある。言うまでもなく、身分や階級を問わない多くの人々が熊野にあこがれ、救いを求め、甦りを願って異郷とも思える山深いこの地を目指したのです・・・熊野本宮観光協会HPから抜粋||
熊野詣が盛んであったのが、平安時代の中期から鎌倉時代にかけてと伝えられている。延喜7(907)年、宇多法皇以来、法皇上皇の御幸も盛んで白河上皇の9度、鳥羽上皇の21度、後白河上皇の34度、後鳥羽上皇の28度と多くを数えたが、弘安4(1281)年、3月、亀山上皇の御幸をもって終結をつげている||
江戸時代に入って、元和5(1619)年、紀州藩主徳川頼宜が熊野三山の復興に力を入れ、再び「蟻の熊野詣」の最盛期を迎えることができたとある。言うまでもなく、身分や階級を問わない多くの人々が熊野にあこがれ、救いを求め、甦りを願って異郷とも思える山深いこの地を目指したのです・・・熊野本宮観光協会HPから抜粋||
今日は、全国の「熊野神社」の総本山にあたる熊野本宮大社に参拝します||||
熊野参詣道のなかでも、多くの人々がたどった「中辺路」を歩くと、難行苦行の道のりを終え最初にたどり着くのが
熊野本宮大社でした||
熊野本宮大社でした||
参道入口には神社の参拝のしかたが説明されていました||
さくらにも復習させます||
決まりを守って右端を歩く石段の両脇には幟がなびき、生い茂る杉木立が悠久の歴史を感じさせます||
以前はペット禁止だったのですが、これからは一緒に参拝できて有り難いです||
今まではさくらはここでお留守番でしたが、今日は総門を潜って中に入ります。なお、写真撮影は許可が必要です||
それで写真は熊野本宮観光協会HPからお借りしました||
向かって左手の社殿が夫須美神(ふすみのかみ)・速玉神(はやたまのかみ)の両神。中央は主神の家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)。そして右手は天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られています||
向かって左手の社殿が夫須美神(ふすみのかみ)・速玉神(はやたまのかみ)の両神。中央は主神の家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)。そして右手は天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られています||
葉書の語源となったと云われるタラヨウの葉がありましたよ||
爪で引っ掻くと文字が浮かび上がって来ます、ほらね♪||
続いて1889年(明治22年)の大洪水で流されるまで、熊野川の中州に在った熊野本宮大社の旧社地を訪ねます||
旧社地の中州は「大斎原」(おおゆのはら)と呼ばれ、日本一高い大鳥居(高さ33.9m、平成12年完成)が建っています||
旧社地の中州は「大斎原」(おおゆのはら)と呼ばれ、日本一高い大鳥居(高さ33.9m、平成12年完成)が建っています||
このような姿だったようです||
巡礼姿に戻って記念撮影||
ここは私たちのパワースポットです||
朝霧にうっすら包まれた旧社地を熊野川の堤防から眺める、私たちの好きな場所です||
堤防の上を歩いて、次の目的地の川湯温泉「仙人風呂」へ向かいます||
川底から絶えず湧き出す70度以上の源泉に、熊野川の支流大塔川が混ざり合い、程良い温泉が出来上がります||
冬の風物詩と呼ばれ親しまれている「仙人風呂」ですが、今年は大雨による増水で2月半ばに終わっていました||
こんな写真を載せたかったのですが(熊野本宮観光協会HPから拝借)||
そこここから源泉がポコポコと湧き上がって来ますが、全体的には冷たい流れなので、さくらはしばらく水遊びを楽しみました||
熊野の旅も残りわずかになってしまいました。これから熊野川を遡り、深山幽谷の地に立ち寄って帰路に着きます(続く)||