今回は葬儀の事について。


この病気になってからすぐに自分の葬儀の事を考えるようになりました。 

その頃から変わらないのは「家族葬」が良いなと言う事。

本当に悲しんでくれる僅かな身内と、病気の事を知っている親友2人だけで見送ってくれたら
それが一番嬉しいなぁと。
(のちに、昔からの大切な友人が3人加わる)


私の両親は既に他界しており
2人とも末っ子なので、残っている両方の叔母2人もかなり高齢。
いとこ達とも殆ど付き合いが有りません。
会うのはお葬式の時くらい。

病気の事は親戚にには話していないし
ちょうどコロナと重なってるので
落ち着いた頃に「事後報告」と言う形で知らせて貰おうと。




それに費用の面でもリーズナブル。
私の葬儀にお金かけるより、その分子ども達の将来の為に使って欲しい。

入っている保険から400万と、ガン保険からも額は忘れたけど少しは出るだろうしね。


緩和に移ってから、弟に頼んで家族葬が出来る葬儀屋さんを幾つかピックアップしてもらい
資料を集めて夫と一緒に見学に行ってもらいました。

弟は「sakuraさんらしい葬儀にしてやるよ!」
と、葬儀屋さんとの交渉もよくやってくれました。

お陰でカフェ好きだった私にピッタリの
お洒落な本当にカフェコーナーのある葬儀場を仮予約。
大体20名参列できるとの事。
祭壇もなかなか素敵です。


「ここだと家族皆んなで泊まれるから、夜1人にならずに皆んなで過ごせるよ。1人分余裕があるから俺も泊まろう!」

こんな風に笑顔で自分のお葬式の計画をしちゃうなんてね照れ




私の家族4人、兄家族4人、弟夫婦2人、義両親、義理の弟家族4人

参列してほしい私の友人5人
夫の親友夫妻(私も仲よくさせて頂きました)

少し人数オーバーしてしまうな。

でも臨機応変に対応して下さるそうで良かった。


長男の喪服も仕上がったようだし

取り敢えず、葬儀については一安心です。
















病院での食事について



一般病棟で鼻から管が抜けるまでは絶食。
氷で口を湿らせる程度は許されました。

管が抜けてからは


これ

でもとても飲めるようなシロモノではなく
ちょっと舐めたくらいでお腹がグュルグュル動きだし
たちまち下痢( ´△`)


殆ど飲まずに終わったエレンタール
1週間くらいだったでしょうか。



やっと流動食へ移行


重湯にお味噌汁
牛乳もあったけど、こんなの飲んだら一気にお腹が大変な事になってしまう!

りんごジュースに変えてもらう
(けど、お腹パンパンで飲めるわけない)





毎日お昼に出たジャガイモのポタージュがすっごく美味しかった(^^)





そして


軟食







刻み食(3分粥)を経て





緩和に来てからは



ハーフ食へと







ハーフと言えど私には食べ切れないほど




まだ下痢は続いていますが
緩和へ来てからはうまくコントロール出来るようしてくれています。

ステントで腫瘍の詰まりを広げているので
万が一詰まって腸閉塞になると大変という事で
小児用の下剤(ロペミン)を1日1〜3回
お通じの状態に合わせて飲んでいます。


まだまだ安定しそうになくて、毎日お腹のキュルキュルの心配ばかりですが(笑)



腹水が貯まってるので量は食べられないけど

それでも、またちゃんとした食事が出来るようになるなんて夢のよう。

本当に有り難く、食べられる事の幸せを噛みしめながら一食一食頂いています。





約2週間前に緩和病棟に移って来ました。

一般病棟と緩和病棟の大きな違いは
治療するか否か。


緩和病棟に来ても、在宅で介護されている方が一時的に入院する場合や、回復されて退院していくという場合もあるらしい。


私の場合はずっとこのままここでお世話になる。
もし希望があれば、一時的に外出や外泊等のサポートは全力でしますと言って下さっています。

「お子様の事もあるし、残された日々を悔いのないように過ごして頂きたい」と。

ここの看護師さんは皆さんとても穏やかで優しい。

一般病棟の時は、若い看護師さんが多く
勿論熱心にお世話して下さる方が半分以上だけど
残念ながらそうでないと感じる事もあり
ナースコールを躊躇してしまう事も度々。

抗がん剤の副作用の酷い下痢も続いたまま
トイレに連れて行って貰わなければならず
1日に7〜8回はトイレに…。

体力と神経を擦り減らす毎日でした。



頑張っていたリハビリは
緩和病棟に移ってからはもう出来ません。

それが一番残念だったかな。


でも、緩和へ来たら
なんとマッサージを受けられる事になり
象の様にパンパンに膨れ上がった脚が

今では


ほぼ元通り。

浮腫が酷いから緩い靴下準備して下さいと言われて買って来て貰ったソックスも
この通りゆるゆる。

このソックス、はち切れそうだったんですよ!
信じられますか?


マッサージの先生は60代のお話好きな方で
お喋りを聞きながら約1時間たっぷりマッサージ。

お陰で足も軽くなり動かしやすくなりました(^^)

他にも音楽療法の先生が来て、お話したり楽器を演奏したり、弾き語りをして下さいます。



今はコロナの影響で中止になっているかいますが

以前はボランティアの方々が
毎日色んな事をして下さっていたみたい。



面会時間もコロナ前は緩和だけはフリーだったのに
今は一般病棟と同じ
16時〜20時
以前は13時〜
短縮されてしまったようです。


緩和病棟に来てから体調も良く
ここへ来て良かったなぁと思う毎日です。



ベッドの向かい壁に自由スペースが有り
子どもたちが小さい頃の写真や
私が趣味で撮ったお花やカフェ撮りの写真を貼りました。

子どもたちと選んで2人に貼って貰った写真。

懐かしい。







余命宣告を受け
緩和病棟に移ってから2週間が経ちました。

ここでは時間が穏やかな時間がゆっくり過ぎていきます。



あと月単位の命と分かってから
まず私がした事

*長男の喪服を作らせる
*葬儀の場所を決める
*夫に通帳、実印等の場所を教える
*夫にヘソクリの場所を教える
*会っておきたいに会い、ちゃんとお別れをする


他にも色々と有りましたが
大体こんな感じです。


私の病気の事は、ごく身近な家族と私の親友2人しか知りません。

それでも、学生時代の親友2人と
独身時代を一緒に過ごした年上の信頼出来る友人には
きちんとお別れした方が良いと思うよ
と、夫からのアドバイスを受け
私もずっと気になっていた事ではあったので、夫に連絡を取ってもらい
会いに来てもらう事になりました。


学生時代の友とは、病気になってから2度程一緒に飲んでますが
病気の事はどうしても言い出せずにいて
「会うのはこれで最後かもなぁ」
と、毎回思っていました。

お見舞いに来てくれた彼女達は、努めて明るくしてくれて
楽しかった思い出話に花を咲かせ
笑顔で「また来るね!」と。
その後もまた2人で来てくれていて、とても楽しい時間を過ごさせて貰っています。

年上の友人もすぐに会いに来てくれました。
10年以上前、同じ病気で闘病した彼女は
相変わらず凛として冷静
でも私を気遣ってくれているのがよく分かりました。
「極々内輪の家族葬になるけど来てくれる?」
「行くよ!病院にもまた来るし!」
と、涙一つ溢さずに(彼女の気遣い)帰って行きました。


あぁ、良かった。

やっぱりちゃんと会話が出来るうちに会っておいて本当に良かった。


背中を押してくれた夫にも感謝です。



皆んな、ありがとうおねがい

 


入院するまでは
かろうじて自力でトイレへ行けていましたが、
ずっと寝たきりが続き、立つ事もままならなくなってしまっていました。

何とかもう一度家に帰りたいと思っていたので
理学療法士の先生にリハビリをお願いする事に。

その頃は下半身が像の様に浮腫んでしまい
最初に先生のマッサージを受けてから
これがとても気持ち良くて(^^)

毎日少しずつ
まずは立つだけ
翌日は足踏みを少し
数日後は器具を使ってゆっくり歩くまで出来る様になりました。


依然としてひどい下痢は続いたままだったけれど
口から物が入っていく喜びに感謝の日々。


そんな中

主治医と夫だけの話し合いが一度

夫、長男、弟と主治医との話し合いが一度



今の状態と今後の事について話し合われました。



もう治療をするの難しい。
今入院している一般病棟は治療をするところで
治療をしないとなるといることが出来ない。

自宅療養に切り替えるか
緩和病棟へ移るか
別の緩和施設へ行くか…

という選択肢を迫られました。

自力で動くことが出来なくなってしまった今
家へは帰れない
日中は誰もいないし
我が家は私以外男ばかり。

私用の食事を作る事も出来ない。

何より家族に相当な負担になってしまう。
それはしたくない。


このまま、ここの緩和病棟で
病状を分かってくれている主治医のサポートを受けながら最後を迎えたいと思いました。

私は腎瘻も入っているので
そちらのケアも続けてして頂けるし

それがベストだろうと家族で話し合いました。


主治医が回診に来てくれた時
私はあとどれくらいなのか聞いてみました
(覚悟は出来ているので教えて下さいと)

答えは
「半年単位は無理で、月単位」
との事でした。

でも
あと数ヶ月は生きられるんだ!
と思った私です。

泣いてる暇はない。
これからの事を考えねばなりません。


私の終活、本格開始です!