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6年生になり塾でもピリピリしてきた。

いよいよ受験の最終学年になったという焦りがお迎えのお母さんたちからも伝わる。

それなのに……

うちの子は既に諦めムードで勉強しない。

どうしたものか……。


これはジャネーの法則の話ではなく、他に原因があるのです。

しかも、絶対に見落とせない原因なのです。



諦めたようなことをくちにしたり、態度に表したり。

そんな6年生の気持ち、何となくわかります。

私は男ですから、同性である男の子のそんな気持ち、わかる気がします。


必死になって落ちるのはちょっとカッコ悪いのかもしれません。

「やらなかったからダメだった」という言い訳が必要なのかもしれません。

これは、「子ども社会」でうまく生きていくための本能のようなもので、そろそろその準備に入らないといけないのでしょう。

でもお母さんは、「頑張ってダメだったのならお母さんも納得なの。頑張って出た結果ならいいの。頑張ることが大事なの」と不可解なことを言い出す。

はあ~、ぼくの気持ち全然わかってない。

頑張るのをセーブし始めているのに……。

とまあ、無意識だからそこまでリアルに考える子は少ないでしょうけれど、「生きる力」みたいなものですからそもそも噛み合っていない可能性があるわけです。

お母さんは西向いて、子どもは東向き~みたいな感じです。


実はこれ、ちょっと感動します。

子どもって、いつの間にか子どもたちだけで構築された社会にいるわけです。

子どもたちだけで見栄を張り意地を張り諦めることもある子ども目線の社会を持っているのです。

この社会だけは大人の価値観なんてまるで通じない。

ここで、「勉強しないなら受験も塾もやめなさい!!」と叱っても、ウンと言わないと思うのです。

それはそれで「子ども社会」で不都合なのでしょう。敵前逃亡みたいだから・・・。


要するに、「もし頑張っていたらあたまはよかった」という印象を残して、ダメだったという結果を受け止めたい。

まだまだこれから先も子どもはその社会で生きていくわけですから、あたまいいイメージの自分は残しておきたいわけです。

すると、「結果が出る」「白黒はっきりする」のは不都合です。


しかし、親というのは今まで逆のことを言ってきた可能性があります。

「あなたは本当はあたまのいい子なんだからやればできるわよ」

何とか頑張らせようと、自信を持たせようと、そう言ってきた親も多いでしょう。

褒めて伸ばす!みたいな本に書いてあるから厄介です。

あんなのものを推奨するのは、浅い関係しか構築したことがない人間の戯言。


「やればできる」

この言葉、子どもによっては「頑張らなくてもあたまいい」と思ってしまう可能性があります。

さらにマズいのは、“頑張らずにあたまいい方がカッコいい”と勘違いしてしまうケースです。

この状況で親が「努力」を要求すると……。

言っていることがなんか辻褄あってないような気がして反抗したくなる。

子どもからすると、「本当はあたまいい」自分なのでしょう。

その自信が4年生5年生と続いてきて、クラスメートからも「結構あたまいい」位置づけになっていると思うのです。

ごく一部の地域を除けば中学受験は少数派ですから、周りは詳しいことまでわからず、イメージだけであたまいいと思っていると思うのです。

ドラマに登場した「ゼロ点シスターズ」なんて全然わかっていない子の見本です。


そんなイメージと実力との乖離をいよいよ調整しなければならない時期にきたものだから、そろそろ微妙にすり合わせていこうとするわけです。



褒めて伸ばすというキャッチは、虐待しない親と自分を重ねる都合の良い言葉です。

要は、「言葉の暴力では子どもはやる気を出しませんよ」程度の話なのですが、「褒めて伸ばす」という言い方の方が親に好印象です。弱点がなさそうなキャッチにみえます。


でも私はそうは思いません。

娘がここ一番頑張らないといけないときに決して褒めたりしません。

ありのままの立ち位置、評価を伝えるようにしています。


「褒めて伸ばす」というのは、「子ども社会」をわかってない大人の考えだと思うのです。

恐ろしいほど直球の言葉が飛び交う子ども社会をわかってない。


私も褒めて伸ばす系の本をいくつか読みましたが、はっきりいって浅い。

子どもへの愛情が深ければ、子ども社会で生きるわが子の姿が目に浮かばないはずもなく、迂闊に褒めることなんて出来ないと思うのです。

中学受験で親が判断能力を失っているときに、褒めて伸ばせと言われたらそりゃ褒めてしまいます。危うく間違うところだった。勘弁してほしい。

褒めようがおだてようが模試がある限りは定期的に現実を見せつけられるのです。

さらに細かく、日頃の演習の出来不出来の場面で実力を思い知らされるのです。

そんな現実があるのに根拠のない褒め攻撃をしても勘違いするだけ。

やっぱり、その時期その時期の正確な学力を伝え続け、自分であたまが良くなってきているのを感じさせないと、あとで子ども社会と辻褄が合わなくなるもとだと思うのです。

そこで苦しめてしまうと思うのです。

うちは褒めるどころか、

「これは絶望的だよね」から始まって、

「う~ん、まあ計算はマシになったかな」、

「そうだなあ、以前に比べるとここは出来るよね」なんて言いながら、

ありのまま伝え続けてました。

現時点での学力はなるべく話を盛ったりしないように気をつけたのです。

下手に勘違いさせてしまう方が後が可哀そうだと思ったのです。

そこまで警戒しても、やっぱり中学受験するっていうだけで子ども社会でのイメージはもう出来上がっています。

これは本の中でもふれましたが(文庫p339)、もう落ちちゃったら子ども社会に戻れないような気さえするのです。

一緒に勉強していたから娘が泣き出した理由も痛いほど伝わりました。

合格不合格より気になるのは、自分の生きている場所なのです。

なかなか梯子を外す勇気なんてない。

また私も「思い切って外せ」なんて怖くて言えない。




そんな事情がある中で、親子の間に少しでも距離があると子どもは本音を隠しに回る。

だからこの期に及んで諦めムードなのでしょう。

これはやる気がないというよりむしろ逆で、これから先も生きていく気満々なのです。

そうじゃなきゃ子ども社会の体裁なんて考えないと思うのです。



さて、どうしたものか。

ここまできたら引き返せないし、塾も最後まで行ってもらわないと仕方ない。

子どもだけでなく、親もここでやめる勇気なんてない。

その中で、「もし勉強していたら」というタラレバを捨てさせたとき、良い方に作用する子とそうじゃない子がいるでしょう。

「結果があなたの現実なのよ」ということを受け止めることが出来る子と出来ない子といると思うのです。

ここは親しかわからないので、他人が判断出来る話ではありません。

受験後に時間をかけて「頑張りと結果はワンセットなんだ」と教えるという策もあります。

ここではっきりさせないといけないわけでもない。

でも、どちらにしても大人になるまでにはちゃんと教えて手元から離れてほしい問題です。


私が難関中学を強くお勧めする理由はここにもあります。

入学してきた子たちは中学受験過熱地区の子ばかりじゃない。

様々な条件と子ども社会の事情がある中で、何としてでも辿り着いた子たちが多くを占めるその環境は、「頑張ること」「必死になること」を茶化すムードじゃない。

頑張ること、それはカッコいいことなんだと、本来の教育をしたいと思う親は多いと思うのです。




さて、私の少年時代はというと。

「オマエの人生や。一回あたまを打ってこい。後悔も勉強になる」なんて言われて育ちました。

これは最大のNG。

これほどダメな言葉はない。

こうして育てると、中卒になって七転八倒することを大人になった私が見事証明してみせた。

(-。-)y-゜゜゜


モグラ叩きじゃないんだから何度もあたまを出さない。

その時期にしかできないこともたくさんあるのだから後悔しても遅い。

後悔なんて勉強にならないどころか、後悔慣れして頭を低くして生き抜く生命力だけがついていく。

やはり成功体験を教えることが大事だと私は思うのです。

自己肯定感を持つ子どもに育てなければいけない。

だけど、この成功体験って現実にするのはかなり難しいから、「いつまでも面倒みてやれるわけじゃないんだから、一度失敗するのもいい」なんて親らしい言葉で横着をする。

それ、完全に「昭和」です。

「いつまでも面倒みれないのなら、面倒みれる間に成功体験させてくれよ」って思うのです。

ごく一部の自力で這い上がった例を見本にされてもね。そんなの簡単にいかない。

子どもより大人の方がどんどん這い上がる難易度が上がって確率が悪くなる。だから子どものうちがチャンスだと思うのです。




体裁を気にする子どもは生きていく満々な証拠。

子どもも大変だなあと私は思います。

2017.5.1

桜井信一