この(長かった)シリーズも愈々最終回となってしまいました…。前回は、「旧約聖書の原罪(エデンの園で”善悪の知識の木の実”を食べてしまった…)」が、思想・哲学的な意味での「異化・対象化」の原型である…という考察を”おさらい”しました。そこでまた更に…思うんですが、「(旧約聖書の)モーセの十戒」の「偶像を作ってはならない(偶像崇拝の禁止)」とは、この「異化・対象化」の事とは考えられないでしょうか…。この「異化・対象化」、「偶像崇拝」とは、ほぼ”そのまんま”マルクス的な「物神崇拝(フィッティシュ)」とも考えられ、近・現代的な「唯物論・科学的思考」に繋がっていると思うのです。…となりますと…、現代に至る近代以降の文明社会は、「”(旧約聖書の)モーセの十戒”に反している…」ということになってしまわないでしょうか。この点は、今日日の現代人はもっと自覚すべきだと思うんだが…。

 更に言うと…、この「異化・対象化」で、”実際のモノ(現物)ではないようなモノ(?)”を「モノ化(対象化)」してしまったその典型が、「貨幣(交換論理)」であると考えます。当ブログの文脈的に、この「貨幣(交換論理)批判」をするならば、(何と言っても…)「ウィトゲンシュタインの”師匠ラッセル”の型(タイプ)理論批判」になるでしょう。逆に考えると、ウィトゲンシュタインは、「”師匠ラッセル”型理論」を排することによって「論理(論理学)の境界性」を明確にさせた…と言えると思います。「交換論理の対象化(貨幣)」とは、謂わば「メタ論理」であり、「(師匠ラッセルの)型理論」も含まれてしまう…と考える訳です。更に言えば…、この「メタ論理・型理論批判」の代表ともいえるのが、デリダの「差延」だったのではないでしょうか。同じ様な考察を、ウィトゲンシュタインは「~ところで、そのような演算とは、始めの命題から何処までも恒真命題を生み出すような演算のことである。(そしてまた、恒真命題からは恒真命題だけが帰結される。)~ 論理哲学論考 6.126」としています(ここでは、数学に於ける”証明”を同様に批判しています)。ここから考えられるのは、この様な「型理論(階層型論理)」的思考では、物事は”(論理的に)収拾が付かない状況に陥ってしまう…”という事ではないでしょうか。当ブログの文脈的にも、「論理の階層化」には無数のパラドックスが付随してしまいます(~ラッセルが考えたように、それぞれ階型ごとに固有の矛盾律があるのではない。一つの矛盾律だけで十分なのだ~ 論理哲学論考 6.123)。そして、この「型理論(階層型理論)」は、「ヒエラルキー構造」でもあり、そのまま「中央集権社会」にも当てはまる…と考えれば、今日の状況が十分に説明が付く…と言えると思います。

 終わりに…また最初の「鴨長明の”方丈記”」に戻ってしまいますが…、無常観や万物流転のように「あらゆるモノは儚い…、何事も変化して止まない…」といった”寧ろ当然な”考え方は、何故に”忘れがち”になってしまうのでしょうか…。これは、現代人の殆どが、「論理性・合理性(経済的合理性)」に基づいて行動してしまっているからだと考えます。この無常観や万物流転のような考え方と最も対照的になのが、「ニュートン力学(古典物理学)」ではないでしょうか。運動法則を追求する(運動論理の対象化)余り、その(例えば”鉄球”のような)物体や空間(絶対空間)、時間(絶対時間)を”固定化・絶対化”させて考える他なかった訳です…。「現代物理学・量子力学」とは、その(固定化・絶対性への)反省であり、”大まかには”「古典物理学批判」でしかありません(これは、ド素人だから言えることです)…。いい意味での、従来の「古典物理学」を超えるものではないという見解ではいるんだが…。

 …色々と散々に述べて参りましたが、個人的にも結構手応えがあり、収穫もあったように感じております…。当ブログのメインコメンテーターである、gd-fgさんの貴重なコメント、御助言に相当なインスパイアを受けたというのは言うまでもありません…。タイトルにある「主観性論理・非同一性論理・相似性論理・一次元連続性論理」には、具体的に言及出来ずに終わって(回数が尽きて)しまい、文字通りの”序説”となってしまいました…。まだまだ”ネタ”は当面ありますので、今後ともよろしくお願いいたします。