この(長かった)シリーズも、”書式(?)”の都合上(㊾までなので)、今回も含めてあと2回となってしまいました…。前回の考察は、「ウィトゲンシュタインやカントの数概念」を参考にしながら、「既存のピュタゴラス的なフラットな数概念」に代わる、「新しい数概念」を模索出来るのではないか…という感じでした。…よくよく考えてみれば、今の我々の住む世界では、ほぼほぼ「数的・数量的世界」で管理されている…と言っても過言ではないでしょう。近年話題の「ジェンダー/ダイバーシティ」や、(gd-fgさんもよく言及される…)「平等/悪平等」等の問題は多々ありますが、数学的な意味での「新しい数概念」を考えることが、一つの”ブレークスルー”になるのでは…と考えておる次第です…。

 この「新しい数概念」は、(もしかしたら…)かなり面白い展開になりそうなので、このシリーズの補足的な感じで、このシリーズ終了後に、改めて何回か続けて考察していきたいと思っております。そんな訳で…、今回と次回は、この”長かった”シリーズを、改めて振り返ってみたいと思います。

 …思い出しましたが、(このシリーズの)第一回目では、「鴨長明の方丈記」を取り上げてたんですね…。「無常観(諸行無常)」、「万物流転(ヘラクレイトス)」、「生生流転」等の考え方は、ややもすれば一括りに”東洋的思想”とされがちではありますが、…よくよく考えれば、極々自然で、寧ろ”当たり前”な事ですよね…。当ブログで何度か述べておりますが、こういった、ごく”当たり前なこと(無常観・万物流転)”が、冷静に受け入れられるようになったのは、ここ数年ではないのでしょうか。”(当たり前に)川が流れている…”ことや、”自分が歳をとる、自分も歳をとっている…”というこようなことを、何故か”棚に上げる”ような考え方が支配的だったような気がします…。これって、意外と結構恐いことだと思うんですよ…。

 …改めて、このシリーズを見直しておりますが…、結構色んな事を書いて(ほざいて)おりますね…。今回のシリーズのハイライトは、”お馴染み”の「同一性批判」から、「(事物の)異化・対象化」を通して、「旧約聖書の原罪(エデンの園で善悪の知識の木の実を食べてしまった…)」へ至ってしまった辺り…と個人的には思っております。つまり、これは単なる「同一性論理」のような思考だけの問題だけではなく、「日常感覚」や「世界観」をも含んだものとして考えるべきだと思うのです。この問題は、「同一性論理」ではなく、「旧約聖書の原罪」から考察した方が遥かに自然に感じるのです…。

 この「異化」をWikipediaで検索すると「ロシア・フォルマリズム」や「シフロフスキー」がヒットしますが、自分としては、これは柄谷行人氏の「倒錯」という言葉が最も当てはまるのではないかと思っています。「日本近代文学の起源」は柄谷行人氏の初期の著作ですが、この中には氏の”思考のエッセンス”が”ふんだんに(?)”盛り込まれている…と個人的には感じております。この著作での、「倒錯」、「風景の発見」、「内面の発見」、「児童の発見」とは、「異化・対象化」の事ではないでしょうか。「倒錯=異化」であり、「~の発見=対象化」と考えても、全く問題ないと感じます。…となると、明治期以降の日本の近代化とは、内面的・世界観的にも、欧米化であり、キリスト教化でもあったのだと言えると思います(…ということは、明治以前の日本は”エデンの園”のようだった…?)。

 やはり、「原罪」と言われるだけのことはあったのではないでしょうか…。アダムとイブが”善悪の知識の木の実”を食べた事による、急激な「自意識の芽生え」、「異化・対象化」の流れは、ほぼそのまま現在の「唯物論・科学的世界観」まで繋がっていると考えます。最近よく思うんですが…、物事を分析(対象化)すればするほど”分からなく”なっていく…と感じます。そして、その対象物が、実際の「モノ・事物」ではなく、「論理(理屈)」であった場合、更に輪をかけて”分からなく”なっていくように思うのです。これは、近年の「金融工学」等に非常に顕著に現れているのではないでしょうか…。「自然科学」や「金本位制」には、実際のモノや現物の縛りがありますが、「金融工学」は、「貨幣」や「債権」等の、”実際に存在しない”ような「交換論理(理屈)」を”対象化(モノ化)”している訳ですから、こんな”有り様”になってしまうのでは…と考えております。これは、ウィトゲンシュタインが、”師匠ラッセル”の「タイプ理論(型理論)」を批判したのと同じ様な理由ではないでしょうか…。。

 …長くなってしまいましたが、このシリーズは個人的にも結構な”手応え”を感じております。当ブログでは、ウィトゲンシュタインから「同一性批判」、柄谷行人氏の「交換様式」から「交換論理」という具合に考察してきましたが、「同一性論理(問題)」のルーツを、敢えて「旧約聖書」まで遡ることによって、いくらか違う景色(見解)が示せたかとは思っております。