飛鳥時代末期に税として
日本で最初の法律書である大宝律令(701年)によると、朝廷に対し今で言う税の一種(調)として海苔は扱われていました。五重塔でお馴染みの法隆寺が建てられた飛鳥時代にまで逆のぼります。
海苔は魚や貝に並び、海藻の中では最も高級品の扱いだったようです。
710年に平城京が開かれると海藻類を売る店が。続く、平安京が開かれるとそれに加えて海苔や昆布を佃煮のように加工したものを売る店が市(いち)に設けられました。
しかし、海苔は庶民には高嶺の花で上流階級である貴族のごちそうだったようです。
具体的に海苔という名称が使われたのは平安時代の987年頃に書かれた「宇津保物語」には、甘海苔や紫海苔として登場しています。
食文化の変化に伴い
鎌倉時代に入ると食文化は大きく変わり、これまでの朝廷の公家や貴族たちが贅を極めた食生活から質素倹約を旨とした精進料理へと変わってきました。精進料理でも海苔は珍重されました。
江戸時代に基盤が築かれました
江戸時代になると、「浅草海苔の誕生」、「海苔巻き(太巻き)の登場」、「海苔養殖の始まり」など、現在の海苔業界の基盤が築かれました。
海苔の養殖は、将軍家に新鮮な海苔を献上するため、品川・大森を中心とする東京湾で始まりました。その後幕府はその海苔を貴重な財源として市場で売るようになったそうです。養殖が始まったことにより、これまでより数十倍の海苔が市場に出回り、海苔は江戸の特産品として庶民にも親しまれるようになりました。
現在の形に
現在の四角形の海苔が登場するのは江戸時代中期。
さまざまな具を芯にしてごはんを巻く海苔巻き(太巻き)が庶民の間で大流行し、屋台ずしと呼ばれる店も登場。江戸っ子たちは、現在のファーストフード的感覚で海苔巻きを食べていたようです。
海苔養殖は江戸時代から始まったものの、海苔の生態がわからなかったためカンや経験だけを頼るところが大きかったため、生産は不安定で長い間海苔は相場商品として「運草」と呼ばれていたのです。
海苔生産が安定したのは戦後になって
時代は過ぎて昭和24年、イギリスのキャサリン・メアリー・ドリュー女史が海苔の糸状体を発見し、それに基づいて、それまで不明だった海苔の生態・ライフサイクル(下図参照)が解明され、人工採苗の実用化へとつながりました。
イギリスのキャサリン・メアリー・ドリュー女史についてはコチラをご覧ください。
それまでの天然採苗の不確実さをなくし、また天然タネ場が近くになかったため、海苔養殖ができなかった地区も産地の仲間入りをしたのです。
戦後ゼロからスタートした海苔養殖は、さまざまな技術革新のもと年々生産量が増加し、現在では100億枚の安定生産体制をキープしています。
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