洪 国栄(ホン・グギョン)【改訂版】。 | 咲くやこの花のキラキラパラダイス

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天下を牛耳ったキングメーカー


■ 党派に縛られない野心あふれる美青年

正祖  (チョンジョ)  の外祖父・洪鳳漢  (ホン·ボンハン)  の遠い親戚に生まれた  (豊山洪氏  / プンサンホンシ)   。真面目でお堅い儒学者タイプではなく、「いつか天下を手に入れる」と仲間内で公言するような野心あふれる美青年だった。ハンサムで詩や歌がうまかったという記録もある。

1773年、25歳の若さで科挙に合格すると、英祖  (ヨンジョ)  に寵愛され、すぐさま国王の側近である史官に任命、世子侍講院  (セジャシガンウォン)  で世孫  (後の正祖)  の教官も任された。4歳年下の世孫から信頼されたのは、彼の政治センスもあったが、どの党派にも属さずに党争とは無縁だったことが大きい。世孫の期待に応え、洪麟漢  (ホン·イナン)  や鄭厚謙  (チョン·フギョム)  から世孫を守り、世孫の代理聴政を脅威から守った。こうして「謀反さえ起こさなければ何をしても殺さない」という親書をもらうほど、世孫から頼られるようになった。


■ 正祖の王権を盤石にした若き実行隊長

正祖の即位から間もなくして、国王の秘書で国王の言葉の伝達役である都承旨  (トスンジ)  に任命される。奎章閣  (キュンジャンガク)  を設置し親衛勢力の養成に専念したかった正祖によって、全権を委任されたのである。こうして、洪国栄の言葉がすなわち正祖の言葉となり、29歳にして天下をわが物にした。

まず王の護衛を強化するため、勇猛な兵士を集めて宿衛所  (スギソ)  を創設。その隊長となって兵権を握った。人事権を手に入れると、蕩平策  (タンピョンチェク)  を逆行させ、老論の学者を採用するなどして、老論内でも中心人物にのし上がった。同時に、知恵を絞って反対勢力の粛清を決行。党派に縛りのなかった洪国栄は、まず老論穏健派で正祖の世孫時代の師匠・金鐘秀  (キム·ジョンス)  と組んで、強硬派の洪麟漢、鄭厚謙らを排除。次に貞純王后  (チョンスンワンフ)  の兄・金亀柱  (キム·グジュ)  と洪鳳漢を攻撃し、最後は金亀柱を流刑にして旧勢力を完全に排除した。


■ わずか3年で政界引退へ
31歳の1778年6月、正祖に跡継ぎがいなかったことから、13歳の妹を正祖の後宮に据えた  (元嬪 / ウォンビン) 。ところが、元嬪が結婚からわずか1年で病死。すると、洪国栄は新たな後宮を迎えることに反対し、子のいなかった元嬪のため、正祖の異母弟・恩彦君  (ウノングン)  の息子の李湛  (イ·ダム)  を養子にした。また元嬪は正室の孝懿王后  (ヒョイワンフ)  に毒殺されたと考え、宮廷内で犯人探しを行った。
1779年9月、正祖から急きょ呼び出される。正祖から絶対的に信頼されていたとはいえ、外戚となってからの傍若無人な振る舞いは目に余るものがあった。自ら辞表を提出したが、正祖に書かされたものだといわれている。本来は退職した長老の名誉職である奉朝賀  (ポンジョハ)  という官職が与えられたが、紛れもなく朝廷からの追放だった。
その後、財産を没収され都には二度と戻れず、34歳で朝鮮半島東海岸の江陵  (カンヌン)  で病死。正祖の即位当初に太く短く活躍した洪国栄は、持って生まれた知略で政治の版図を塗り替えた。そのドラマチックな短い生涯は、ドラマや映画の題材にも多く取り上げられている。



















洪柱元 (ホン·ジュウォン) ・貞明 (ジョンミョン) 公主の夫は実在した 

















■ 流刑地=江陵金潤起家屋。




※ 同じ名前の57号というものがあり、紛らわしいですね。










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