誠寧大君/李ジュウ (ソンニョンテグン / イ·ジュウ )
第3代国王・太宗 (テジョン) と正妃・元敬王后閔氏 (ウォンギョンワンフミンシ) の四男。第4代国王・世宗 (セジョン) のすぐ下の弟。
※ 残念ながらWikipedia日本語版はありませんでした。しかし、下記に朝鮮語 (韓国語) 版がありましたのでupさせて頂きました。
両親に寵愛されるも夭折した末っ子
誠寧大君 (李ジョン / 本来は衤(ころもへん) + 重) は1405年に太宗の四男として生まれる。美男で聡明だっただけでなく、元敬王后 (ウォンギョンワンフ) が41歳の時の子どもであったため、両親から格別に愛された。8歳で就学すると勉学に熱心に励み、弓もうまかった。両親や兄をよく敬い、太宗は常にそばに置いておきたがった。1414年、文臣・成抑 (ソン·オク) の娘と結婚するものの、1418ねん、天然痘で14歳の短い生涯を閉じた。唯一即位後に生まれた息子を失った太宗は歎き悲しみ、誠寧大君の祠を立て、兄・忠寧大君 (後の世宗) の三男で同年に誕生した安平大君 (アンピョンテグン) を養子に入れ、祭祀を担うよう命じた。しかし、安平大君が、実の兄・首陽大君 (スヤンテグン / 後の世祖 / セジョ) との確執から流刑にされ、1453年に賜死したため、1460年、尚寧大君 (ヒョリョンテグン) の六男・原川君 (ウォンチョングン) が養子に入り祭祀を継いだ。
■ 家族を悲しませた早過ぎる時
断絶状態にあった王と王妃にとって、誠寧大君は“かすがい”だった。目に入れても痛くない四男を失った元敬王后は悲しみのあまり、誠寧大君の墓前に冥福を祈るために建てられた寺・大慈庵 (テジャアム) で余生を過ごす。崇儒抑仏が推し進められる中、大慈庵は王家に庇護され、王室の法事を行い繁栄した。文禄・慶長の役の時に焼失したが、京畿道高陽市 (キョンギドコヤンシ) 大慈洞で2008年、大慈庵跡と思われる遺構が見つかっている。太宗も四男が天然痘に倒れたことを知るや、巫女や占い師を呼んで吉凶を占い、治療祈願のために寺に駆け込んだ。祈りも空しく四男が永眠すると、太宗は巫女らを追放、密教式呪術で病を治す総持院 (チョンジジョン) への国家支援を打ち切ったという。世宗もすぐ下の弟とは特に中が良く、看病を率先したとされる。
※ はしか=麻疹だったという説もある。
■ 墓所=京畿道高陽市大慈洞。