任士洪 → 英語版。
任士洪 (イム·サホン)、任崇戴 (イム·スンジェ) 親子は『中宗実録 (チュンジョンシルロク)』に「有史以来、最悪の奸臣」と記された歴史上の人物。任士洪は2人の息子を王の娘たちと政略結婚させており、次男の任崇戴は燕山君 (ヨンサングン) の異母妹、微徽翁主 (フィスクオンジュ) の夫となった。成宗の在位中には敵対勢力により流刑になっていた任士洪は、成宗の死後、燕山君に息子の任崇戴が重用されたことで自らも朝廷に復帰。その後、敵対勢力を一掃しようと燕山君に彼の実母の死を真相を告げ口し、甲子士禍を引き起こした張本人として有名だ。息子の任崇戴は、この父親以上に悪賢い人物として知られているが、歌舞にも長けていたことから、宮廷音楽を取り仕切る掌楽院 (チャンアグォン) の長を任されていた。そして1505年、父と共に全国各地から美女と駿馬を集めて王に献上する採紅使 (チェホンサ) に任命される。採紅使は美しい女性であれば妓生であろうと、良家の子女であろうと、はたまた人妻であろうと関係なく連行したといわれ、こうして集められた女性たちは “運平 (ウンピョン)” と呼ばれた。また、この中からさらに選び抜かれ、宮中に入った女性たちは “興清 (フンチョン)” と呼ばれた。だが、燕山君の機嫌を取り、権勢を振るった親子の最期は悲惨なものだった。任崇戴は1505年に病死、任士洪は燕山君がクーデターで失脚した際に処刑され、この時、任崇戴も墓を暴かれ首を切られてしまった。
内より記事をお借りして引用させて頂きました。