■仮通夜 2月28日
泣きながらいつの間にか眠ってしまったようでした。目覚めた瞬間、いままでのことは全部夢であってほしいと思いましたが、やはり夢ではありませんでした。
今日は解剖のすんだ祐太朗を私が迎えに行かなければなりません。葬儀会社が用意してくれる寝台車には1人しか乗れないので、私が行くことになったのです。
行きは電車で大学病院に向かいました。途中でモノレールに乗り換えました。祐太朗が小さい頃、乗りたがったので、用もないのにモノレールに乗って往復したことを思い出しました。こんな悲しい思いで再びモノレールに乗るなんて、思いもよりませんでした。
駅に着くと冷たい雨が降っていました。法医学研究室には指定の時間より少し早めに着きました。自動販売機とイスのある休憩所でしばらく待つように言われました。1時間以上待ったでしょうか、警察の人が何人かやって来ました。それぞれ、彼の持ち物--カバンや着ていた制服、ビニール袋に入れられたこまごました物を持っていました。
「持ち物の確認をお願いします」
と言われ、一つ一つ、カバンの中身まで確認しました。ビニール袋の中には、彼の物といっしょにそれらがあった場所を書いたメモが入っていました。
それが終わると、死体検案書を渡されました。死亡時間は午後9時ごろと書かれていました。
祐太朗の持ち物を持って、寝台車へ向かいました。寝台車のなかでは、白い布につつまれた祐太朗が待っていました。彼のとなりに乗り込み、おそろしく冷たくて固いその体に触れながら、彼が生まれて、病院から家に連れて帰った時のことを思い出していました。あのときの祐太朗は小さく、やわらかくて、あたたかくて、うれしい思いでいっぱいで連れて帰ったな……と。それが、こんなことになるなんて、あのころは思いもしなかったな……と。
そんなことを考えると、また涙が流れてきました。寝台車の中から見える空はどんよりとした灰色でした。祐太朗が好きな場所があれば通りますよと言われていたので、彼が入りびたっていた鉄道模型店の前を通ってもらうことにしました。ただ通り過ぎるだけかと思っていたら、運転手の人はその店の前に来ると車を止め、窓を開けてくれました。そして、家の前を通り、葬儀会場へと向かいました。
葬儀会場ではお父さん、弟、おばあちゃん、おじさん夫婦、葬儀会社の人が出迎えてくれました。白地に紺の模様の着物を着て、布団の上に横たわった祐太朗の表情は昨日警察署で見たときのあのまま、鬼の形相でした。
「あれは、祐太朗じゃない!」と、私は思わず泣きくずれてしまいました。お父さんも、おばあちゃんも、みんな泣いていました。
「湯かん(亡くなった人を洗って、きれいにすること)されますか?」
葬儀会社の人が聞いてきたので、お願いしますと答えました。お風呂が好きだった子が2日も入れなかったなんて耐えられなかっただろう、とお父さんが言いました。湯かんした後に生前気に入ってた服を着せることができると聞き、服を取りにおじさんの車で家に戻りました。黒のジーパン、田宮模型のマークのTシャツ、自衛隊の戦闘機がプリントされたグリーンのトレーナーを持って行き、着せてもらうことにしました。
湯かんは若い女性2人が、気持ちよく、手ぎわよくしてくれました。立ち会って見ることもできたのですが、彼の鬼の形相を思い出すと怖くてできませんでした。湯かんが終わり、おそるおそる祐太朗に近づき、顔を見ました。彼の顔はおだやかな、生きていたときの顔に変わっていました。まるで眠っているかのようでした。
その後、葬儀会社の人と通夜や葬儀の打ち合わせをいろいろしました。小さいころから鉄道が好きだった祐太朗の最後の晴れ舞台なので、祭壇には彼が今まで集めた鉄道関係のコレクションをめいっぱい飾ることにしました。祭壇の花も、花屋さんに無理を言って花電車にしてくれるようにお願いしました。
そして、通夜や葬儀に来てくれた人に渡す品も祐太朗らしいものにしたいという話になったときに、お父さんが、「銚子電鉄のぬれせんべいにできないかな」と言いました。祐太朗にとって大変思い入れはあったけれども、食べることのできなかった、あのぬれせんべいです。でも、注文が殺到して生産が追いつかないと聞いていたし、量が多いので断られるかもと思いながら、ダメもとでお父さんが電話をし、事情を話してお願いしてみたところ、工場をフル回転させて作って送ります、と快く引き受けてくださいました。通夜に間に合わなくても、葬儀の時だけでも渡せたら、と思っていると、翌日の朝、早速届き、ありがたさで胸がいっぱいになりました。銚子電鉄のみなさんのあたたかい心づかいには今でも本当に感謝しています。
打ち合わせも終わり、少し落ち着いたところで、葬儀をしてくださるお寺の住職が枕経を上げに来られました。この住職は祐太朗を赤ちゃんの時から知っていて、この人も悲しませることになると思うと、申し訳ない気持ちでいたたまれなくなりました。住職は、祐太朗を一目見るなり、「大きく、りっぱになられましたね」とおっしゃいました。その言葉を聞いて、ますます申し訳なく、つらく、悲しくて何とも言えなくなってしまいました。
祐太朗の携帯が戻ってきたので、その携帯のアドレス帳から手当たりしだいにメールや電話をし、通夜と葬儀の日の連絡をしました。学校の友達以外にも鉄道関係などで多くの友人がいたので、その人たちにも悲しい知らせをしなくてはならなかったのです。
夜になり、葬儀会社が用意してくれたお弁当が届き、それを見てはじめて今日一日何も食べていないことに気づきました。その夜は、元の顔に戻って棺に入った祐太朗のそばにずっといました。祐太朗は身長が180センチ以上あったので、棺は190センチの特大を用意してもらいましたが、棺に入れるとき、ひざを曲げないと入りませんでした。
「夜9時に死んで、一晩中見つけられずにつるされていたから、身長が伸びてしまったのかもしれない」
お父さんがポツリとつぶやきました。ブルーグレーの色をした棺の中はドライアイスがいっぱいにしきつめられていました。
つらくて悲しいのには変わりないけど、やっと祐太朗が戻ってきて少しホッとしたような、複雑な気持ちでした。
■通夜 3月1日
祐太朗の祭壇ができあがりました。遺影は昨年の夏、家族で中国を旅行したときの1枚を選びました。遺影の前には、特注の花電車を置いてもらいました。そのまわりには、今まで鉄道イベントなどで買い集めた鉄道部品、Nゲージ、鉄道関係の本、愛用のカメラと三脚などを飾りました。祐太朗の自慢の品々です。祐太朗の戒名は、鉄道に関係する字を入れてほしいと住職にお願いし、「乗」の1字をいただきました。
通夜には、本当にたくさんの人たちが参列してくれました。小学校、中学校の時の同級生とそのお母さん、先輩、小学4年生からの担任の先生全員、高校の友人、放送部の部員、鉄道関係の友人、クラシックバレエと中国語の先生と生徒の人たち、近所の人、お父さんとお母さんの職場関係の人、彼をわが子のようにかわいがってくれていた人、つい10日前のイベントで祐太朗と知り合った人まで、様々な人が彼のために涙を流し、手を合わせてくれました。初めて顔と名前を知った人も多かったです。名のらずに帰られた人もいたかもしれません。
クラシックバレエの先生が、怒るように言われたことが今でも忘れられません。
「何で、何でこんなことになったの、誰が、何が、悪いの?」
そして友人の一言も。
「おれだって、いじめられてて死にたいと思ったことあるけど、死なずにここまで来て、やっと友達ができたと思ったのに、その友達が死んでしまうなんて……」
名残を惜しむように、多くの友人が彼の棺のまわりで長い間残っていてくれました。
次の日の明け方、お父さんと歩いて家に帰り、3日ぶりのお風呂に入りました。
■葬儀 3月2日
葬儀の時間は、祐太朗の友人が来やすいように、一番遅い時間にしてもらいました。平日で学校がある日なので、昨日より参列者は少ないです。祐太朗の高校は生徒代表2人だけが忌引き扱いで参列でき、他の生徒は欠席扱いになるとのことでした。それでも学校を休んで参列してくれた友人もいましたが、どうやら同じクラスの生徒は来ることが出来ないようでした。
葬儀の途中、お父さんの携帯がなりました。祐太朗のクラスメイトからの電話でした。
「今から、クラス全員で行ってもいいですか」
思ってもみなかったことでした。学校で、何があったのかは私たちには分かりません。当然、「出棺を待ってもらうから来て」と返事しました。出棺の時間を過ぎましたが、ぎりぎりまで待ってもらうことにしました。しばらくすると、学校の制服を着た子たちが一人また一人と走ってきました。私は思わず葬儀会場の入り口に出て、一人一人を出迎え、声をかけていました。やがてクラスメイト全員が彼の棺のまわりにそろいました。棺が閉じられ、霊柩車に乗るまでみんなは口々に、
「帰ってこいよ!」
「絶対帰ってこいよ!」
彼に呼びかけながら棺につきそってくれました。最後はクラスメイト全員に見送られての旅立ちとなりました。
霊柩車にはお父さんが乗り、私たちはマイクロバスに乗り込みました。葬儀会場を出るとき、祐太朗の高校の先生が何人か、立っているのが見えました。車は山の中にある火葬場を目指して走ります。いつのまにか空が晴れているのに気づきました。火葬場で、棺がこれから火葬する炉に入るのを見送りました。16年間大切に育てた祐太朗の体とはこれで永久にお別れです。出棺の前、祐太朗の棺の中には、友人からの手紙、彼が好きだったお菓子、毎月買っていた雑誌の3月号を入れました。
火葬が終わるまで2時間ぐらいかかるので一度葬儀会場に帰って待ち、再び火葬場に戻りました。お骨拾いの骨は全部拾うつもりで一番大きい骨つぼを用意してもらいました。太くて、たくさんの骨でした。骨つぼに入りきらないほどで、入れるのに苦労しました。木箱に入れられ、白い布に包まれた骨つぼは私が抱いて帰ることにしました。骨だけなのにずっしりと重かったです。
葬儀会場に戻り、住職にお経を上げていただいてから、骨になってしまった祐太朗はようやく自分の家に帰ることができました。家では葬儀会社の人が祭壇を作ってくれていたので、そこに祐太朗の骨つぼを置きました。特注の花電車も、まだきれいだからと葬儀会社の人が運んでくれ、祭壇の横に飾りました。
葬儀会場からの荷物を運び終わり、おばあちゃんやおじさん夫婦も帰り、家族3人だけになりました。すべてが終わってホッとすると同時に、これまでの疲れと、さびしさと、悲しさ、つらさ、むなしさが一気にどっと押し寄せてきました。そして、4人いたはずの家族が1人減り、3人になってしまったことをあらためて実感しました。
私は予知夢を見て、各関係者に警告文を送る活動をしています。予知夢の内容は、もちろん悪いことばかりではなく、良いことも夢で見ます。しかし、人には悪い癖があります。素晴らしいことを話したら、そのことに安堵してしまい、地球の未来のために努力をしなくなります。悲惨なできごとだけを伝えるのは、そのことに対して真剣に向かい合い、素晴らしい世界になるために前向きな姿勢を持ってもらいたいと思っているからです。
――「9月13日に日本か中国でマグニチュード9以上の地震が起こり、死者が100万人」や、「2043年以降に日本列島が沈む」などと言われると、われわれ一般の人間は、逆に途方に暮れてしまいそうですが?
そう思う人は、現在の幸せに満足していて、未来に対する危機感を持っていない人だと思います。現在はそのような人ばかりです。そういう人は大地震が起きたとしたら、「どうすることもできない。死んでしまってもいい」と思ってしまいます。でも、そうではないのです。私は、この世界が終わるからといって、何もしないで諦めてはいけないと考えています。地震や台風などは自然現象なので、止めることは誰にもできません。しかし、被害の規模を小さくすることはできます。
2007年12月22日に起きたインドネシアの大地震はとても印象的でした。私は、1日違いの23日に大地震が起きるという夢を見たので、インドネシアの政府に警告をしていました。そのことが世界的な新聞やメディアで取り上げられたのです。そして、インドネシア政府は、大規模な避難訓練を行いました。海や水から離れること、ビルから離れること、広い原っぱで座るか寝転ぶこと。そういう基本的なことを教えました。そのお陰で、死者はほとんど出なかったのです。
――インドネシアの人々は、よくパニックにならずに、迅速な行動を取れましたね?
地震は、突然起こるからパニックになるのです。いつ頃起こるのか事前に知り、そのためにきちんと準備することで、人の命は助かります。
中国の地震でも、ミャンマーのサイクロンでもそうですが、事前に訓練を受けていなかったのではないかと思います。中国では、地震が起きたとき、建物の中に入ったため、生き埋めになった人が多かったのではないでしょうか。おそらく、「地震がきたら机の下に隠れましょう」というような間違ったことを教えていたのだと思います。そういった間違いを正していくのが私の仕事だと考えています。
――小惑星衝突など、私たちにはなす術(すべ)がないこともあると思いますが?
そんなことはありません。私は、一人ひとりの努力によって、この地球を救うことができると考えています。その第一歩として、まずは家族を愛することが大切です。ぜひ自分の家族とコミュニケーションをはかることから始めてください。その愛が、その周りに広がっていきます。小惑星の衝突が起こらなければ、それはまさにみなさんの愛と努力によって、状況が変化したということなのです。
子どもの読者から手紙をもらいました。「この本を読んだお父さんが、僕を抱きしめてくれた」という内容でした。それこそが家族の愛なのです。この本を通じて、私のメッセージが少しでも伝わったことを感じ、大変嬉しかったです。
――「予言が外れたのは、人々の心が入れ替わったから」という論理は、予言ではないという反論もあるかもしれません。それについて、いかがでしょうか?
これはいつも言っていることですが、私の予言は外れてほしいのです。まったく当たらない予言者になりたいと願っています。大きな事件や災害で、人々の尊い命が消えてしまったときは、いつも胸を痛めています。神は私にメッセージを伝えたのに、私の力では未然に防ぐことはできなかったわけですから。警告文を送っても、聞き入れてもらえないことがほとんどです。そういった意味で、私は予言者ではなく、警告者なのかもしれませんね。
予言は外れてほしいと語るジュセリーノ氏。
――日本の未来に警告することはありますか? また、日本人は今後どうしたらよいですか?
警告とはちょっと違いますが、日本は世界のリーダーになる必要があります。政治的な問題も抱えていますが、日本の教育は優れています。経済的にも他の国に比べて豊かです。
しかし、日本に足りないものがあります。それは、自由がないということです。個人の自由という意味ではありません。自国で「世界のための決断を下す自由がない」ということです。
日本は素晴らしい国です。世界のための決断する自由を手に入れたなら、とても明るい未来が見えてきます。
――日本をアジアの拠点と考えているのも、日本の可能性を信じているからですか?
日本というのは、地理的にはあまり恵まれていません。地震はよく起こりますし、台風もよく通過します。しかし、今後、世界でリーダーシップを取っていける国だと思っています。
日本はテクノロジーが優れています。知識もあります。そして、国民が協力することに長(た)けています。例えば、阪神・淡路大震災のあと、第2次世界大戦のあとを思い出してください。人々がひとつになって、再び国を立て直そうというパワーが優れているのです。
同じ可能性のある国、ついて行きたいと思っている国にとって、日本は世界のリーダーになれます。だからこそ、私も日本に来ているのです。
――ジュセリーノ氏の体を借りて、神は私たちに警告しているわけですが、神が望む世界というのは、どのような世界なのでしょうか?
神というのは一人ひとりの心に存在するものですから、神が何を求めているかということは、個人の心の中で理解すべきだと思います。神は、私たちを「正しい道に導くものである」ということは間違いありません。
神が求めている世界というのは、くだもの畑で例えると、いろいろな種類のくだものをみんなで分かち合って食べているというイメージです。それは人間に限ったことではありません。動物も植物も、環境も地球も同じです。すべてがお互いに理解し合い、愛し合うことで、ひとつの平和な世界ができるのです。そのためには、私たち一人ひとりが責任を持って行いを改めることで、新しい世界を築いていくことが必要とされているのです。
しかし、人間はこれまで逆の生き方をしてきました。科学的な発明や発見をマイナス方向に利用してきました。核兵器や原子爆弾などを生み出し、多くの人が殺し合っているのです。これが現実です。そして、今一番考えないといけない戦争は、環境戦争です。環境破壊により、近い将来、多くの人が亡くなっていく悲惨な世界になっていきます。
日本は世界のリーダーシップを担うでしょう。
――今後は悲惨な世界になるということですが、明るいことはないのでしょうか?
人々が意識して変わっていけば、時期が早まるかもしれませんが、それは2043年以降のことです。例えるならば、花が咲き出す時期だと思ってください。これからの35年間は、本当に厳しい時期だと思います。素晴らしい将来をつくるために、一人ひとりが今の過ちに気付き、変えていかなければなりません。
このようなメッセージを伝えるために、私は講演をしたり、テレビなどのメディアに出たり、本を出版したりして、世界中で活動しているのです。
――活動を通して、人々の意識は変わってきましたか?
いろいろな人に会ってきましたが、変わってきたことを感じています。それは宗教を変えるということではありません。日常に愛を植えるということです。今の世の中は憎しみだらけです。そうではなく、愛を咲かすために愛を植えるということです。
私が活動し続けることで、より多くの人の心を動かしたいと思っています。すべての人の心を変えることは無理ですが、大多数の人々に私のメッセージが伝わったら、こんなに素晴らしいことはないと思います。
――予知夢で見る未来は良い方向に変わりつつありますか?
良い方向に変わってきていると、自信を持って言えます。だからこそ、私はここにいるのです。確実に成果は出ています。
どんな国の人、どんな宗教の人であろうとも本当の幸せを感じ、みんなで分かち合える世界をつくっていかなければなりません。人は頭を使って物事を変えることができます。未来の子どもたちに、幸せな環境をつくるべきだと思います。そして、確実に明るい未来に向かっています。
取材後記
笑顔で取材に応じてくれたジュセリーノ氏は、何ともいえない包容力のある人物だった。これは、氏が言うところの「環境や地球と一体になる」ということなのだろうか。予言の的中率にばかり目がいってしまっていた私はジュセリーノ氏の真のメッセージを聞き、これからの生き方について改めて考えさせられた。
(取材・文/森秀治 撮影/金澤智康 動画/小松智幸 協力/わぐりたかし 構成/大川朋子)