「フェラーリ」 | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫




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マイケル・マン監督、アダム・ドライバー、ペネロペ・クルスによる濃密な時間をフェラーリが駆け抜けるような一瞬の体感時間で駆け抜ける映画でした。





フェラーリの映画といえば、2019年のマット・デイモンとクリスチャン・ベールの「フォードVSフェラーリ」があります。

「フォードVSフェラーリ」は1966年のル・マン24時間耐久レースを取り扱っていましたが、今回の「フェラーリ」はそれより前の1957年のミッレリアのレースを主軸としています。





フェラーリのあの流線的でクールなレース車のハリウッド的なカーレース対決ものかというと、この映画はそのように単純なものではありません。




フェラーリ創業者、アダム・ドライバー演じるエンツォ・フェラーリ、この映画が取り扱うのは彼が59歳のたった数ヶ月。

レース映画でもなければその生涯を描いた伝記映画というわけでもありません。



この映画の舞台である1957年の前年、彼は息子を難病で24歳という若さで失っています。

息子を亡くした喪失をペネロペ・クルス演じるラウラ・フェラーリと分け合っているかというと、またそう単純な描き方はされていません。


二人の関係は冷え切っていて、会社の共同経営者という関係の上で成り立っているといった空気です。




映画は、フェラーリが愛する人の隣で目を覚ますシーンから始まります。

このカットは暖色に溢れていて、フェラーリが隣で眠る愛する人にキスをし、夢の中にいる息子を起こさないように車のエンジンを響かせないよう家を出ていく、非常に愛情深い始まり方です。


この女性と子供というのは、フェラーリと愛人関係となっていたリナという女性と婚外子であるピエロという男の子でした。



映画の開始10分でさらにフェラーリの会社の経営が危ういことや、肝心のレースのタイムも競合する他社に破られることが多くなっていることが描かれます。


この映画がどういう方向性の映画で、人物関係がどのようであるか、どういうテイストの映画であるかがこの冒頭で全て描かれます。

テクニックに一切の無駄がなく、美しいカメラワークの描写と過多にならないセリフの情報で観客に提示されます。



同時にこの時点で、この映画にはハリウッド的な勧善懲悪もなければ、バトルテイストでもなければ、CGを多用するものでもないことが分かります。



登場人物の全てに光と闇が混在し、それらを分けることはありません。

少し先は全て闇。

光をつかめば、そこにあるのは光だけではなくて必ず闇もある。


やがて、彼らの歩む先と、主要な舞台装置である「ミッレリアのレース」とリンクさせながら映画は進んでいきます。



ミッレリアのレースは、この1957年のレースで一般の市民を巻き込んだ死者11人を数える大きな事故によって、この年を最後にスピードレースは廃止となっています。


フェラーリ社としてのレースの行方は、映画で見届けていただくのがいいとして、この結果にはまるで天国と地獄が両方同時に存在するかのような衝撃を観る人間に与えます。



これには、人間とは単純な成功も失敗もない、フィクションのように一筋の道筋が照らされるような簡単な人間活動というものはないと深く実感させられました。





登場人物の誰もがただのいい人、ただの悪い人ではない、混沌とした割り切れない何かを皆が抱えている、そんな人間として当たり前かつ創作としては描きにくい人間性を、恐ろしいほどストレートに描いているように感じられました。




一言では片付けられない恐ろしくも濃密で、時間を忘れてしまうほど映画の中に自分を置き忘れてしまう、そんな131分でした。





一つ、これから観ようかと悩んでいる方に、事故の悲惨なシーンが非常にリアルに描かれているので、そういうシーンが苦手な方はお気をつけください。










豊竹とよたけ咲寿太夫さきじゅだゆう


人形浄瑠璃文楽ぶんらく
太夫たゆう
国立文楽劇場・国立劇場での隔月2週間から3週間の文楽公演に主に出演。
モデルとしてブランドKUDENのグローバルアンバサダーをつとめる。

その他、公演・イラスト(書籍掲載)・筆文字(書籍タイトルなど)・雑誌ゲスト・エッセイ連載など
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