◼️絵本太功記
尼ヶ崎の段
一間に入りにけり。
残る莟の花一つ、水上げかねし風情にて、思案投げ首しをるゝばかり、やう〳〵、涙押し留め。
「母様にも祖母様にも、これ今生の暇乞ひ。この身の願ひ叶ふたれば、思ひ置く事さらになし。十八年がその間御恩は海山かへ難し。討死するは武士の習ひと思し召し分けられて先立つ不孝は赦してたべ。二つにはまた初菊殿、まだ祝言の盃をせぬが互ひの身の幸せ。わしが事は思ひ切り、他家へ縁付きして下され。討死と聞くならば、さこそ嘆かん不便や」
と、孝と恋との思ひの海
隔つ一間に初菊が、立ち聞く涙転び出で、『わっ』とばかりに泣き出だせば
『はつ』と驚き口に手を当て
「アヽコレ声が高い初菊殿。さては様子を」
「アイ、残らず聞いてをりました。夫の討死遊ばすを、妻が知らいでなんとせう。二世も三世も女夫ぢゃと思うているに情けない。盃せぬが幸せとは、あんまり聞こえぬ光義様。祝言さへも済まぬうち、討死とは曲がない。わしゃ何ぼうでも殺しはせぬ。思ひ留まって給はれ」
と、縋り嘆けば
「アヽコレ、こなたも武士の娘ぢゃないか。十次郎が討死はかねての覚悟。祖母様に泣き顔見せ、もし悟られたら未来永々縁切るぞや」
「エヽ」
「サア、とかう言ふ内時刻が延びる。その鎧櫃こゝへ、こゝへ」
「アイ〳〵」
「サ早う。時延びる程不覚のもと。聞分けない」
と叱られて『いとしい夫が討死の、門出の物具つけるのが、どう急がるゝものぞいの』と泣く〳〵取り出す緋縅の鎧の袖に降りかゝる雨か涙の母親は、白木に土器白髪の婆、長柄の銚子蝶花形、門出を祝ふ熨斗昆布結ぶは親と小手臑当、六具かたむる三々九度、この世の縁や割小ざね、猪首に着なす鍬形のあたり眩ゆきいでたちは爽やかなりしその骨柄。
「ヲヽあっぱれ武者ぶり勇ましゝ。高名手柄を見るやうな、祝言と出陣を一緒の盃。サア〳〵早う、めでたい〳〵嫁御寮」
と、悦ぶ程なほいや増す名残り『こんな殿御を持ちながら、これが別れの盃か』と、悲しさ隠す笑ひ顔
「随分お手柄高名して、せめて今宵は凱陣を」
と、跡は得言はず喰ひしばる、胸は八千代の玉椿、散りて果敢なき心根を察しやったる十次郎、包む涙の忍びの緒、絞りかねたるばかりなり。
哀れをこゝに吹き送る風が持て来る攻め太鼓、気を取り直しつゝ立ち上り
「いづれもさらば」
と言ひ捨てゝ、思ひ切ったる鎧の袖行方知らずなりにけり。
「ノウ悲しや」
と泣き入る初菊、母も操も顔見合はせ
「祖母様」
「嫁女、可愛や、あったら武士を、むざ〳〵殺しにやりました。ノウ初菊。十次郎が討死の出陣とは知りながら、なまなか留めて主殺しの憂き死恥をさらさうより、健気な討死させんため、祝言によそへて盃をさしたのは、暇乞ひやら二つには心残りのないやうと、思ひ余った三々九度。婆が心のせつなさを、推量しや」
とばかりにて、初めて明かす老母の節義
聞く初菊も母親も、一度にどうと伏し転び、前後不覚に泣き叫ぶ。
襖押明け何気なう、つか〳〵出づる以前の旅僧
「コレ〳〵かみさま、風呂の湯が沸きました。どなたぞ、お入りなされませ」
と言ふに、こなたは泣き顔隠し
「ヲヽそれはご苦労、さりながら年寄に新湯は毒。跡は若い女子ども、マアお先へ御出家から」
「いかさま、湯の辞儀は水とやら、左様ならば御遠慮なし、お先へ参る」
と立上がれば
三人は涙押包み、奥の仏間と湯殿口、入るや
月漏る片庇