【床本】道行思ひの短夜「心中宵庚申」文楽の台本 | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫

道行思ひの短夜


名残も夏の薄衣、鴬の巣に育てられ子で子にならぬ時鳥、我も二八の年月を養ひ親に育てられ、子で子にならず振捨てゝ死にゝ行く身は人ならぬ、死出の田長か時鳥。

卯月五日の宵庚申、死なば一所と契りたるその一言は庚申、参りの人に打紛れ忍び出づるも哀れなり。

『われが恋路は糸なき三味よ。なんの音もせで待ち明かす。それぢや〳〵。見れば思ひの雲の帯〳〵、さても短夜心の急くにござんせ。嫌と仰しゃろとこちゃもうそうさんせ。二人が中に名取川、ヲヽそれ、二人と二人が名取川。それぢゃそれぢゃえ』

下向の衆のぞめき歌「それ行き過ぎし」と立ち出でて

「今の小唄の一節に、二人と二人が名取川。ヲヽそれ、それぢゃと謡ひしは」

「俺とそなたが名取川。辻占がよいこなたヘ」

と、勇むは男の弥猛心

「アヽ嬉しい」

と引連れて、ともに急ぐは女気の情けするどに人絶えて、物しん〳〵たる寺町を、死にゝ行く身も暫くは、こゝ生玉の馬場先に法界無縁の勧進所、無明能化の門前に念仏を頼り辿り寄る。

「ナウお千代、心は境界に従つて転じ変るとや。そなたも千代といふ名を、風覚良訓信女と改め、我も八百屋半兵衛を露秋禅定門と改め、息のあるうちよりはや亡き人の数に入れば、死後の体の置き所も俗縁を離れ、寺の庭でと思へども、門開かねば力なし。こゝは奈良の東大寺、大仏殿の勧進所。わが親は講中の第一にて、由緒ある所なれば、最期をこゝと思い寄る。但し望みもありや」

と問ヘば

「ナウ死ぬる身になんの望み。水の中火の中でも、先の世までもこな様と、女夫になってゐる所を、見立てゝ死んで下さんせ」

と、さめざめ歎けば

「ヲヽ過分な。この書置きにも書くとほり、養子になって十六年この方、十方旦那の機嫌を取り、暇ある日には町中を振売し、元は僅かの八百屋店、今では人に少々の金貸す様に儲け溜めても、辛い目ばかりに日を半日、心を伸ばすこともなく、死なうとせしも以上五度。恨みある中にもそなたに縁組み、せめての憂さを晴せしに、それさへ添はれぬやうになり、死ぬる身にまでなり下る。よしない者に連れ添ふて、半兵衛が身の因果、そなたにまで振舞ひ、在所の親仁姉御にも悲しい事を聞かすかと思へばこの胸にやすりをかけ、肝を猛火で煎るやうな、エヽ口惜しい」

と拳を握り、膝に押付け身を震はし、涙はら〳〵朝露につれて流るゝばかりなり。

「あれまた愚痴なことばかり、在所の父様姉様はこな様より諦めよい。水盃のその上に門火まで焚かれしは、生きて再び戻るなとわしに意見の暇乞ひ。その愚痴な事言ふ手間で、早う殺して下さんせ。アレ〳〵〳〵三方四方に半鐘が鳴る鐘が鳴る、人の来ぬ間に〳〵」

と、急ぐ最期の玉葛、夫に纏ひ泣沈む。

「ヲそれよ〳〵。よしなき悔み、もはや互ひに親のこと兄弟のこと言出すまい。必ずそなた言出しゃんな。いざこなたヘ」

と、毛氈を土に打敷き

「ナウお千代、この毛氈を毛氈とな思はれそ。二人が一所に法の花、紅の蓮と観ずれば、一蓮託生頼みあり。親兄弟への書置も、この状箱に入れ置けば、明日は早々届くべし。サア〳〵観念、最期の念仏怠りゃるな。今が最期」

とずばと抜く。

千代は合掌、手を合せ

「南無阿弥陀仏、弥陀仏」

の声より早く引き寄せて、脇差し喉に押当つる。

「ナウ待ってたべ、待たしゃんせ」

「待てとは未練な、刃物を見て俄かに命惜しなったか、卑怯者め」

と睨め付くれば

「イヤ〳〵未練も卑怯も出ぬ。今の回向はわが身の回向。可愛やお腹に五月の男か女か知らねども、この子の回向してやりたい。嬉しやまめで生んだらば、どうして育てう、こうせうと、案じ置きは皆あだ事。日の目も見せず殺すかと思へば可愛うござんす」

と、かっぱと伏して泣入れば

男も声を啜り上げ

「俺もなんの忘れうぞ。もし言ひ出したら、そなたの泣きやらう悲しさに黙ってゐた」

とばかりにて、一度にわっと声を上げ、前後正体泣叫ぶ

「サア夜明けに間がない。明日は未来で添ふものを、別れは暫しのこの世の名残」

十念迫つて一念の、声もろともにぐっと刺す。

咽の呼吸も乱るゝ刃、思ひ切っても四苦八苦、手足を足掻き身をもがき、卯月六日の朝露の草には置かで毛氈の上に亡き名を留めたり。

年は三九の郡内縞、血汐に染みて紅の衣服に姿、掻い繕ひ

妻の抱へを二つに押し切り、諸肌脱いでわれとわが、鳩尾と臍の二所、うんと締めては引括り〳〵、脇差し逆手に取持って、二首の辞世にかくばかり。

「古を捨てばや義理も思ふまじ、朽ちても消えぬ名こそ惜しけれ」

遥々と、浜松風に揉まれ来て、涙に沈むざゝんざの声、三国一ぢゃ、われは仏になりすます。しゃんと左手の腹に突立て、右手へぐわらりと引廻し、返す刃に笛掻き切り、この世の縁切る、息引切る

哀れなりける次第なり。









 





 

 

 

 



とよたけ・さきじゅだゆう:人形浄瑠璃文楽
 太夫
国立文楽劇場・国立劇場での隔月2週間から3週間の文楽
公演に主に出演。


その他、公演・イラスト(書籍掲載)・筆文字(書籍タイトルなど)・雑誌ゲスト・エッセイ連載など
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豊竹咲寿太夫
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