時代で変わる価値観
1739年の4月11日は人形浄瑠璃文楽と歌舞伎で共通して人気の高い人形浄瑠璃のひらかな盛衰記の初演の日です。
盛衰記とは平家物語から派生した源平盛衰記のことで、「ひらかな」つまり平仮名と題名につけることで、
お芝居にして分かりやすくした盛衰記ですよ!
とアピールしているわけです。
源平の合戦の中でも源義仲の四天王「樋口兼光」を軸に、一ノ谷の合戦までの期間の物語を描いています。
ちなみに一谷嫩軍記という作品もあって、源平合戦から生み出されたお芝居は現在伝わっていないものも含めると星のようにたくさんあります。
このような、江戸時代の人から見て大河ドラマに相当する演目を時代物といい、この時代物のお芝居の構成(脚本家目線)には一定のルールがあります。
まず、冒頭部。
全ての物語の導入部。
ロードオブザリングの原本「指輪物語」の第1部「旅の仲間」には物語に入る前に、世界観を歴史的に紹介するプロローグが存在します(作者のトールキン氏は作中の歴史年表から言語まで全て作成していたそうです)。
この義太夫狂言の時代物の冒頭部も同様なつくりになっていて、
このお芝居は「いつの時代」で「誰の物語」で「どのような場所」が起点となって起こったか
ということを説明する大序とよばれるプロローグ部があります。
導入の「ひらかな盛衰記」の初演時の実物の番付は発見されていないのですが、再演時の江戸時代の配役によると、大序は竹本播磨少掾という太夫さんが勤めてらっしゃいます。
大序からはじまり、物語の導入部から事の発端までを描くのが、初段。
次からは二段目、三段目、四段目というふうになっていくのですが、これもロードオブザリングに例えると分かりやすく、「旅の仲間」「二つの塔」「王の帰還」のような印象をもっていただくといいかと思います。
全て通して観るのが物語を体感するのには尤もですが、それぞれの部で観てもしっかりと物語が完結している、それが「段」の構成です。
そして、ロードオブザリングを通して観ると10時間かかるのと同じように、この時代物のお芝居も通して観ると10時間前後かかるのがほとんどです。
さて、各段の構成についてはいずれnoteのほうで詳しくご説明させていただきたいと思いますが、先程ご紹介したプロローグの大序についてもう少しお話したいと思います。
咲寿太夫(さきじゅ)@人形浄瑠璃文楽太夫@sakiju
1739年4月11日、 #ひらかな盛衰記 が竹本座で初演されました。現在、こういった時代物の序章である「大序」は若手がリレー形式で語りますが、江戸時代の番付を見ると最高峰の太夫である竹本播磨少掾が大序・二段目切・三段目切・四段… https://t.co/lWleFc984o
Twitterの方ではこのように簡単にご説明したのみでしたので、もう少し。
先程ご紹介したとおり、初演そのものの番付は現在のところ残っていない状態なので(発見されますように)、再演時を参考にさせていただきますが、この際大序を勤められたのが竹本播磨少掾。
彼はこの時最高峰の太夫でした。
現に、他の段の切り場(メインの場面の語り)を勤めてらっしゃいます。
現在では、大序という場面は若手でも最若手からリレー形式で語るというのが通例になっています。
いつからこのように変わったかというと、時代が明治に移り変わったのち、まだしばらくは大序という場面は切り場語りやそこに準ずる地位の太夫が勤めていたことが遺されており、若手になったのは近年であると推測されます。
わたしの師匠の師匠である山城少掾師匠や師匠の父上の綱太夫師匠の時代の芸談になると、それがうってかわって、大序は若手の登龍門として存在していたことが窺われるのです。
当時、義太夫人口はプロアマ含め非常に多く、その様子は上方落語で鮮明に描かれているのでぜひ参考にしてほしいと思います。
つまり、切り場どころかそこへ達する端場や口などひとりで舞台上で語るまでの実力を示す手段として「大序」がひとつの指標となっていたと推測されるのです。
大序はもともと竹本播磨少掾のような天皇家からお名前をいただくほどの実力者が勤めていた場面ですので、基本的な節から情景描写、あらゆる登場人物の明示などを含め、一朝一夕で語ることのできない場面です。
なので、戦前など数多くいた太夫の峰の上を目指す者たちの登龍門として、その大序を分割して語らせたというのが実状であると推測できます。
事実、その大序の連中の中で実力を示せたものは大序を抜けて、物語の根幹へ関わっていく部分の語りを担うことができました。
時代によっては「偉い人がやること」
しかし、時代によっては「偉い人がやっていたからこそ、新参がどれほどそこへ向かって精進することができるか」の指標になった、と私は捉えています。
いつの時代にも、前時代のものを昇華して次の時代に繋げるための手段として進化させることは「手段」としておおいに歓迎されるべきことではないだろうか、とそう考えました。