【床本】葛の葉子別れの段・奥[文楽の台本] | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫

 

芦屋道満大内鑑






葛の葉子別れの段・奥




溜息


ついたる折からに

立ち帰る安倍保名。それと見るより

「ヤア庄司殿ご夫婦か」

「お身は保名か、ナウ懐かしや〳〵」

「イヤそれはこの方も御同然。まづ奥へ、いざご案内」

と立つ袂をひかへ

「まづ〳〵急に渡す者あり。コレ預かりの葛の葉連れて参った。渡し申す婿殿」

と引き合わされて葛の葉は、さすが二人の親の前、いはで心を知れかしの、顔に会釈ぞこぼれける。


保名大きに痛み入り

「これは〳〵拙者が留守の内はや葛の葉にご対面なされ衣服を着せ替へ今連れて来たように見せ、この保名を困らせてお笑ひなされうためか。

女房も女房、今初めて来たように所体をつくって何じゃの。アハヽヽヽヽ。この申し訳こそ段々、ご息女葛の葉と夫婦になりこれにあること、先年信田の宮にて悪右衛門狼藉の時、すでに事難儀に及び生害仕らうと存ずる処へ早速この人が駆けつけさまぐの介抱。
それより一緒に立退き所々漂泊し、この所に住居はや五年。
安倍の童子と申す五歳の男子をまうけ、おとなしく生い立ち申すにつけ、これを力にお詫び申さば、孫に免じわが不行跡御免もあらうか、今日は参らう、明日はお詫びに参らんと、口では申せども何か所存に任せず、一日々々と相延び今更お詫び申さう詞もない。
重々の不調法、孫に免じご堪忍あるやうに、母様お取りなしなされ下され」

と、身を投げ伏して詫びにける。



「イヤサ、云い訳どころではない。来てみれば不思議たら〴〵。まずあの機織る人を密かに覗いて見ておぢゃれ」

「げにも〳〵女房はここにいる、誰が機を織るらん」

と、呟きながら立ち寄って、そっと覗いてびっくりし、色を違へ立ち帰り

「あそこにも葛の葉ここにも葛の葉。コリャどうぢや、こは〳〵いかに」

と顛動し、奥を見ては呆れ顔、こなたを見ては興醒め顔、物をも言はず立つついつ思ひがけなき驚きにただ茫然たるばかりなり。

「オヽ当惑の体至極せり。
われも信田にて別れし後、悪右衛門が讒言にて重代の所領没収せられ、吉野の山の片里に世を忍び住むその内に、貴殿のことを恋慕ひ焦がれ煩ふこの娘、五年の歳月いろ〳〵看病肝を焦がす処、不慮にこの頃貴殿の在処聞くと等しく忽ち病気平癒し、夫婦が召連れ来て見れば思ひも寄らぬ二人の葛の葉、今日も明日も覚め果てしが、退いて分別するに離魂病といふ病あり。俗には影の煩ひといひ形を二つ分くるといへども、それも一つ軒をば離れず、時々形を合すといへばそれでもなし。正しくこれは変化の所為か又は天狗の業なるべし。
わが娘に引き合わせ誠をもって理を押さば、忽ち姿を現すべし性根を忘ずる処でなし。

保名心をつけられよ」



「気をつけ給へ婿殿」

と、夫婦力をつけ給へば

「仰せまでも候はず、我も加茂の保憲に随ひこれしきの邪正を糺すこと一句一指の手段にあり。
きっと証を見せ申さん。
各々は暫しの内、見苦しくもこの物置に密かにお忍び下さるべし」

と、余儀なき詞に

人々も

「構へて仕損じ給ふな」

と、危ぶ心の物置の簾を上げて忍ばるゝ



保名異なき風情にて内に入り

「これは〳〵坊主めがあがき草臥れ、この踏反って寝た姿わいの。童子が母はおはせぬか、今帰りし」

と呼ばはれば

前垂襷取り敢えず

「いつより今日のお帰りは遅かりし。お肌寒にはなかりしか」

「イヤ〳〵空も暖かに住吉へ参詣し、帰りは例の天王寺、なう思ひも寄らず六時堂の前、お身の父庄司殿ご夫婦にはたと行逢ひ、日頃の不届胸につまって挨拶をしかねたれば、あちには一向恨みの気もなく、在所を聞いたゆえ娘に逢はうため尋ね来れども見る通り連れ衆もあり、この衆を片づけ日暮れにはこれへ参らう。食物の用意は無用洗足の湯を頼むとモなかなか心解けたる挨拶、一つ二つ物いはうと思ひしが、かいつまんでも五年の話思はず時を移いた。
お身も久々の対面さぞ悦び。身も大慶」

と、物語れば

「それは何よりお嬉しや、日暮とて間もなし。用意無用と宣ふとも、何ぞせずばなるまいか」

「イヤ〳〵孫をつき出しお目にかけるが馳走の一番。お身も髪に櫛でも入れ衣服も着かへ、しをたらとした体を見せませぬ、それが馳走の第二番、サ早う〳〵身は夜と共の物語。この草臥れでは続くまい。日暮れまで一睡せん」

と、言ひつつ女房の形風情見れども驚く体もなく、髪とり上ぐるその姿

「どっこに一つの言い分なし。ただしは娘を連れて来た庄司夫婦が何ぞではあるまいか」

と、迷ふ心の奥の間に忍びて事を窺ひける。


妻は衣服を改めてしを〳〵と奥より出で、臥したる童子を抱き上げ、乳房を含め抱きしめて云はんとすれどせぐり来る、涙は声に先立ちて暫く先立ちて暫く咽び入りけるが


「恥しや浅ましや年月包みし甲斐もなく、おのれと本性露して妻子の縁をこれ切りに、別れねばならぬ品になる。父御にかくと言ひたいが互ひに顔を合はせては身の上語るも面伏せ。御身寝耳によく覚え父御にかくと伝へてたべ。

われは誠は人間ならず、六年以前信田にて悪右衛門に狩出され死ぬる命を保名殿に助けられ、再び花咲く蘭菊の千年近き狐ぞや。
剰へ我故に数ヶ所の疵を受け給ひ、生害せんとし給ひし命の恩を報ぜんと葛の葉姫の姿と変じ、疵を介抱、自害をとどめ、労り付き添ふその内に、結ぶ妹背の愛着心夫婦の語らひなせしより、夫の大事さ大切さ愚痴なる畜生三界は人間よりは百倍ぞや。

殊におことを儲けしより右と、左に夫と子と抱いて寝る夜の睦言も夕べの床を限りぞと、しらず野干しの通力もいとし可愛に失せけるか。
今別るるとて父御前の業でもなく、元より名を借り姿を借りし葛の葉殿、恩はあれども怨はなし。
庄司殿御夫婦を誠の祖父様祖母様、葛の葉殿を真実の母と思ふて親しまば、さのみ憎うも覚すまじ。悪あがきをふっつと止め、手習ひ学問精出してさすがは父の子程あり、器用者と褒められよ。
何をさせても埒あかぬ道理よ、狐の子じゃものと、人に笑われ誹られて母が名迄も呼び出すな。
常々父御様の、虫けらの命を取る碌な者にはなるまいとただ仮初のお叱りも、母が狐の本性を受け継いだるか浅ましやと胸に釘刺す如く何ぼう悲しかりつるに、成人の後までも小鳥一つ虫一つ、無益の殺生ばしすなへ。

必ず〳〵別るるとも母は其方の影身に添ひ行末長く守るべし。とはいうものの振り捨ててこれが何と帰られう、名残をしやいとほしや。放れがたなや、こち寄れ」

と、抱き上げ、抱き付き抱き締めて、思はずわっと泣く声に

保名一間を走り出て

「仔細は聞いたり何故に童子を捨ててやるべき」

と呼ばわる声に



庄司夫婦、葛の葉も転び出で


「放ちはやらじ」

と取り付けば

抱きし童子をはたと捨て、形は消えて失せにける




庄司目をしばたたき

「エヽさて夢ばかりかくと知ったらば、ふかふか尋ね来ずともしやうもやうあるべきに、無惨の次第を見ることや」

と、夫婦が悔めば

葛の葉も手持ち無沙汰に見えけるが

「アヽそうじゃ、何はともあれかくもあれ、自らが姿となり、自らが名を名乗り、産んでもらいしこの坊はとりもなほさぬ我が子なり。
父様母様お前方のためにも真実の孫じゃと思ふてくださんせ。

コレ坊ンち、今からこの母が身に代えて愛しがる。今までの母様のように、母様々々としなつこしう頼むぞや。オヽよい子や」

と抱き給へば

乳を探して

「イヤ〳〵この母様はそでない」

と膝を這い下り見回して

「母様々々」

と呼び叫べば

保名堪えかね大声あげ

「たとへ野干の身なりとも物の哀れを知ればこそ、五年六年付き纏ひ、命の恩を報ぜずや。いわんや子までもうけし仲。狐を妻に持ったりと笑う人は笑ひもせよ。我はちっとも恥ずかしからず。
別るるとも相対にて互ひに合点のその上は失せもせよ、消えもせよ、このままにてはいつ迄も放ちはやらじ。ヤア葛の葉。童子が母よ、女房よ」

と、間の襖を引きあくれば、向うの障子に一首の歌。

『恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信田の森のうらみ葛の葉』

「ハアさては一首のかたみを残しつれなうも帰りしな、われに名残は残らずとも童子は不憫に思わずか」

と奥に駆け入り表に出で、狂気の如く駆めぐれば

童子も父の跡につき

「母様どこへいかしゃった。母様なう」

とかっぱと伏し声をはかりに足摺し、身を悶え嘆くにぞ


庄司夫婦、葛の葉も、共に哀れに取り乱し前後不覚に嘆かるる。



庄司嘆きを止めんと思ひ

「ヤア保名不覚なり。
狐ばかりが葛の葉で、我が娘は葛の葉ならずや。殊に残せし一首の歌『恋しくば尋ね来て見よ』と詠んだれば、いつでも信田へさへ行けば出合うに疑ひなし。
エヽ未練散々卑怯至極」

と、いさむる処へ




今朝より立ちまう木綿買い、一つになってつっと入り

「ヤア安倍保名、葛の葉、信田の庄司見つけた〳〵。かく言ふは石川悪右衛門殿家来、荏柄の段八」

「信楽雲蔵」

「落合藤治」

「主人の御心をかけらるる葛の葉を隠しをく保名は密夫同然、討ち殺して姫を連来れと、この頃ここに徘徊し今日出喰わせたは百年目」

「女房があっても首がなうては済むまい。畏まったと葛の葉を渡せ〳〵」

と呼ばはったり。



老人夫婦足弱の殊に嘆きに気も後れ、途方にくれて立ち騒ぐ

保名『はっ』と心付き

「申し〳〵騒ぐまい。葛の葉は童子を抱き御夫婦を介抱し、裏口を出て影隠した、遠へ逃ぐるに及ばず」

と、裾引つからげ突っ立ち上がり

「ヤア愚者い向かって返答なし。葛の葉がほしくばこの保名を首にして連れて行け、サ来い」

と形見こそ今は仇なれ幸ひと、織りかけし白機の招き掛板、巻竹よちぎり杼筬よわくなんど、はづみを打って投げかけ〳〵

ためらふ処を

『まっかせ』と親機『えい』とこぢ放し

「科ある者を成敗の磔といふはた物の、塩梅見よ」

と、振廻し日頃には似ぬ強勢も、狐や力添へぬらんはげしかりける働きなり

落合は逃げ支度

段八雲蔵生兵法、肋と眉間に大疵受けのたり廻って死してんげり。



人々駆け出で『手柄々々』と、勇めども


葛の葉は勇みなく

「何を言うても私に、乳がなうてはいつ迄もこの子が馴染まうやうがない。あっちにあっても入らぬ乳貰ふてほしい」

と、泣きければ

「オヽ道理々々。それまでもなく一度は尋ね逢はではかなはぬ義理。夜道をゆくもたどたどし明けなば夫婦童子を連れ」


尋ねて来ませ和泉なる信田の森へと