【床本】渡し場の段[文楽の台本] | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫


 日高川入相花王


渡し場の段


 



ここは紀の国日高川、清き流れも清姫が松吹く風に誘われて、只さへいとど物凄し。

女心の一筋に脛もあらわにようようと、日高の川をここかしこ

「安珍さまいのう、わが夫のう」

と駆け回り、呼べど叫べど松風の他に答えるものもなき。

早や山の端にさし昇る、隈なき夜半の月影は、昼を欺くごとくなり。



かすかに見ゆる川岸のもやいし舟に

「ハア嬉しや、ここは日高の渡し場。これを越ゆれば道成寺へ間もなし。渡り頼まん、急がん」

と川の汀に立ち寄って

「のう、その舟早う渡してたべ。渡し守殿、渡し守殿いのう。これのうのう」

と呼ぶ声も枯れ野の秋の舟ならで、渡りかぬるぞ甲斐もなき。


寝耳にふっと舟長は苫押しのけて仏頂面。

「エエ何じゃ、喧しいわい。夜夜中がやがやと『早う早う』のその声であったら夢を取り逃したわい。夜が明けたらば渡してやろう。エエ、コレマ、よう寝ているものを、あた鈍臭い」

とつこうどに顔をしかめて呟けば

「のう、自らは道成寺へ急ぐ者、早うここを渡してたべ。サ、早う、早う」

「エエ何じゃ、ドジョウ汁が食いたい? ハハハハハ。テモいやらしい奴じゃわい。ハハア聞こえた。こりゃ何じゃな、宵に渡した山伏殿の跡追うてきた女子じゃな。エエ、それなればなお渡されぬ。ならぬ、ならぬ」

とにべもなき詞に姫は涙声。

「エエ、そりゃ胴慾じゃ〳〵〳〵わいのう。親の許したわが夫をよその女子に寝取られて何とこのまま帰られう。不憫と思うて渡してたべ。慈悲じゃ情けじゃ、聞き分けて」

と頼みつかこちつ手を合わせ、嘆き沈むぞ哀れなり。

こなたはなおも空吹く風。


「ム、それほど頼むなら渡してやろう

と言うたらよかろう、が、マア嫌じゃ。
俺ゃあの山伏に縁もなし、また所縁もなけれど、渡されぬというその訳を耳をさらえてよう聞けよ。

われが尋ねる山伏の頼みには『様子あって某は道成寺へ逃げ行く者。十六、七の女子が来たら必ず渡してくれるな』と、小金くれて頼まれたれば、金の冥利でこの川を渡すことはならぬわい。

寒気を凌ぐ山吹の八重か一重か板一枚。下は地獄のこの商売。頼まれたれば男づく、いっかな渡さぬ、マアならぬ。

われもまたどれ程に焦がれても及ばぬ恋じゃ。役にもたたぬ顎聞かずと、足元の明いうち、とっとと去ね、とっとと去ね。

エエ、うじうじとうじついて、棹の馳走を喰らうか」


と慈悲も情けもなかなかに渡す気色もなかりける。



姫はあるにもあらればこそ

「エエ聞こえませぬ、聞こえませぬ、聞こえませぬ安珍さま。恨みはこっちにあるものを、却ってこの身に恥かかされ、何と存へいられうぞいなう。

今日とても父上のご意見、ごもっともとは思へども、女は一度わが夫と思ひこんだら如何なこと例へ地獄に落つるとも(思ひこんだら魔王でも例へ鬼でも変化でも)可愛いという輪廻は離れず、まして五月の宮詣にふっと見初めしその日より、愛し床しい恋しいと夢現にも忘れかね、焦がれ焦がるる恋人に逢うて嬉しい言葉を語らう間さへ情けなや。

恋の呵責に砕かれて身は煩悩に繋がるる、紅蓮の氷、大焦熱、阿鼻修羅地獄へ落つるとも、思ひ切られぬ安珍さま、聞こえぬわいな」


と身をもだへ「わっ」とばかりに声を上げ、嘆く涙の雨車軸、その名も高き紀の国や、日高の川に水増して堤も穿つごとくなり。

泣く目を払ひ、すっくと立ち、

「エエ妬ましや、腹立ちやな。

思ふ夫を寝取られしうらみは誰にも報ふべき、例へこの身は川水の底の藻屑となるとても、憎しと思ふ一念のやわか晴らさでおくべきか」

と心を定め身繕ひ、川辺に立つより水の面、写す姿は大蛇の有様。

「もはや添われぬこの身の上、無間奈落へしずまば沈め、恨みを言ふて言ひ破り、取り殺さひでおこうか」

と怒りのまなじり、歯を噛みならし、辺りを睨んで火焔を吹き、岸の蛇籠もどうどうと青みきったる水の面、ざんぶとこそは飛び入ったり。



舟長見るよりわななき声。

「鬼になった、蛇になった、角が生えた、毛が生えた。喰いころされては叶わじ」

と跡をも見ずして一散に、飛ぶがごとくに逃げて行く。






不思議や立浪逆巻いて、憤怒の大頭角振りたて、髪も逆立つ波頭、抜手をきって渡りしは



メリヤス




怪しかりける。