【床本】天満紙屋内の段・切 (心中天網島) | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫
◾️心中天網島
天満紙屋内の段・切



令和元年九月文楽東京公演チラシより引用








すぐに仏なる。
門送りさへそこ/\に閾も越すや越さぬ中、炬燵に治兵衛またころり被る布団の格子縞。

「まだ曽根崎を忘れずか」
と呆れながら立寄って、布団を取って引退くれば枕に伝ふ涙の滝。身を浮くばかり泣きゐたる。
引起し引立て炬燵の櫓につきすゑ、顔つくづくと打眺め

「あんまりじゃ、治兵衛殿。それほど名残惜しくば誓紙書かぬがよいわいの。一昨年の十月中の亥の子に炬燵明けた祝儀とて、まあこれこゝで枕並べてこの方、女房の懐には鬼が住むか蛇が住むか。二年といふもの巣守にしてやう/\母様叔父様のおかげで、睦じい女夫らしい寝物語もせうものと楽しむ間もなくほんに酷い、つれない。さほど心残らば泣かしやんせ/\。その涙が蜆川へ流れて小春の汲んで飲みやらうぞ。エヽ曲もない恨めしや」
と、膝に抱付き身を投げ伏し口説き立ててぞ歎きける。

治兵衛眼押拭ひ、

「悲しい涙は目より出で、無念の涙は耳からなりとも出るならば、言わずと心を見すべきに、同じ目より零るゝ涙の色の変らねば、心の見えぬは尤も尤も。人の皮着た畜生女が、名残もへちまもなんともない。
遺恨ある身すがらの太兵衛、金は自由、妻子はなし。請出す工面しつれども、その時までは小春めが太兵衛が心に従はず、『少しも気遣ひなされな、たとへこなさんと縁切れ、添はれぬ身になつたりとも、太兵衛には請出されぬ、もし金ぜきで親方から遣るならば、物の見事に死んで見しょ』と、度々詞を放ちしが、これ見や。退いて十日も経たぬ中、太兵衛めに請出さるゝ腐り女の四つ足めに、心はゆめ/\残らねども、太兵衛めが威厳こき、治兵衛身代息ついての、金に詰まってなんどと、大阪中を触れ廻り、問屋中の交際にも面をまぶられ生恥かく、胸が裂ける身が燃える。エヽ口惜しい無念な熱い涙、血の涙、ねばい涙をうち越へ、熱鉄の涙がこぼるゝ」

とどうと伏して泣きければ

はっとおさんが興さめ顔。

「ヤアヽハア、それなれば、いとしや小春は死にゃるぞや」

「ハテサテ、なんぼ利発でもさすが町の女房ぢやの。あの不心中者がなんの死なう。灸をすゑ薬飲んで命の養生するわいの」

「いや、そうでない。私が一生言ふまいとは思へども、隠し包んでむざ/\殺すその罪も恐ろしく、大事の事を打明ける。
小春殿に不心中芥子ほどもなけれども、二人の手を切らせしは、このさんがからくり。
こなさんがうか/\と死ぬる気色も見えしゆゑ、あまり悲しさ、『女は相身互ひごと、切られぬところを思ひ切り、夫の命を頼む/\』と、かき口説いた文を感じ、『身にも命にも代へぬ大事の殿なれど引かれぬ義理合思ひ切る』との返事。
私ゃこれ守りに身を放さぬ。
これほどの賢女がこなさんとの契約違へ、おめ/\太兵衛に添ものか。女子は我人一向に思ひ返しのないもの。
死にゃるわいの/\。アヽひょんなこと、サア/\サ、どうぞ助けて/\」

と、騒げば夫も敗亡し

「取返した起請の中知らぬ女の文一通、兄貴の手へ渡りしはお主から行た文な。それなれば、この小春死ぬるぞ」

「アヽ悲しや、この人を殺しては、女同士の義理立たぬ、まづこなさん早う行て、どうぞ殺して下さるな」

と夫に縋り泣沈む。

「それとてもなんとせん、半金も手付を打ちつなぎ留めて見るばかり。小春が命は新銀七百五十匁呑まさねばこの世に止むることならず。今の治兵衛が四貫匁の才覚、打ちこみしやいでもどこから出る」

「なう仰山なそれですまばいと易し」
と、立って箪笥の小引出、明けて惜しげもないまぜの紐付袋押開き投出す一包み。
治兵衛取上げ
「ヤ、金か。しかも新銀四百匁、こりゃどうして」
とわが置かぬ金に目さむるばかりなり。

「その金の出所も後で語れば知れること。この十七日岩国の紙の仕切銀に才覚はしたれども、それは兄御と談合して商売の尾は見せぬ。小春の方は急なことそこに四四の一貫六百匁、マ、一貫四百匁」

と大引出の錠明けて箪笥をひらりととび八丈、
京縮緬のあすはない夫の命白茶裏、
娘のお末が両面の紅絹の小袖に身をこがす。
これを曲げては勘太郎が手も綿もない袖なしの、羽織も交ぜて
郡内の始末して着ぬ浅黄裏、
黒羽二重の一帳羅定紋丸に蔦の葉の、のきも退かれもせぬ中は、内裸でも外錦、
男飾りの小袖までさらへて物数十五種内端に取つて新銀三百五十匁、
よもや貸さぬといふことはないものまでもある顔に、夫の恥とわが義理を、一つに包む風呂敷の中に、情を寵めにける。

「私や子供はなに着いでも男は世間が大事。請出して小春も助け、太兵衛とやらに一分立てゝ見せて下さんせ」

と、言へども始終差仰向き、しく/\泣いてゐたりしが

「手付渡して取止め請出してその後、囲うて置くか内へ入るゝにしてから、そなたはなんとなることぞ」

と言はれてはっと行当り

「アアそうじゃ、ハテなんとせう、子供の乳母か、飯炊きか、隠居なりともしませう」

とわっと叫び伏沈む。

「あまりに冥加恐ろしい、この治兵衛には親の罰天の罰、仏神の罰は当らずとも、女房の罰一つでも将来はようない筈、ゆるしてたもれ」

と手を合せ口説き歎けば

「アヽ勿体ない。それを拝むことかいの、手足の爪を放しても、皆夫への奉公、紙問屋の仕切金、いつからか着類を質に間を渡し、私が箪笥は皆空殻、それ惜しいと思ふにこそ、なに言うても跡へんでは返らぬ。サア/\早う小袖も着替へて、にっこり笑うて行かしやんせ」
と、下に郡内黒羽二重縞の羽織に紗綾の帯、金拵への中脇差、今宵小春が血に染むとは仏や知ろし召さるらん。



「三五郎こゝへ」

と風呂敷包肩に負ほせて供に連れ、金も肌身にしつかと着け、立出づる門の口。


「治兵衛は内におゐやるか」
と、毛頭巾取って入るを見れば、
「南無三宝」舅五左衛門

「これはさて、折も折、ようお帰りなされた」
と夫婦は顛倒狼狼ゆる。

三五郎が負ふたる風呂敷もぎ取って、どっかと坐り尖り声。

「女郎下にけつからう。聟殿、これは珍しい、上下着飾り脇差羽織、あっぱれよい衆の金遣ひ紙屋とは見えぬ。コリャまた新地への御出でか御精が出まする。内の女房入らぬものおさんに暇やりゃ。連れに来た」

と口に針ある苦い顔
治兵衛はとかうの言句も出ず。

「父様、今日は寒いによう歩かしゃんす。まづお茶一つ」
と茶碗をしほに立寄って
「主の新地通ひも、最前母様孫右衛門様御出なされて段々の御意見、熱い涙を流し、誓紙を書いての発起心。母様に渡されしが、まだ御覧なされぬか」

「ヲ、誓紙とはこのことか」
と懐中より取出し
「阿呆狂ひする者の起請誓紙は方々先々書出しほど書き散らす。合点いかぬと思ひ/\来れば案のごとく、このざまでも梵天帝釈か、この手間で去状書け」
とずん/\に引裂いて投捨てたり。

夫婦はあっと顔見合わせ呆れて詞もなかりしが、治兵衛手をつき頭を下げ

「御立腹の段尤も御詫び申すは以前のこと。今日の只今よりなにごとも慈悲と思召し、おさんに添はせて下されかし。たとへば治兵衛乞食非人の身となり諸人の箸の余りにて身命は繋ぐとも、おさんはきっと上に据ゑ憂い目見せず辛い目させず、添はねばならぬ大恩あり、その訳は月日もたち、私の勤め方身上持直し、お目にかくれば知るゝこと、それまでは目を塞いで、おさんに添はせて給はれ」

と、はら/\こぼす血の涙、畳に喰ひ付き詫びければ

「非人の女房にはなほならぬ。去状書け/\。おさんが持参の道具衣類、数改めて封付けん」

と立寄れば女房あわて
「着る物の数は揃うてある。改むるに及ばぬ」
と駈け塞がれば
突退け、ぐっと引出し
「コリヤどうぢや」
また引出してもちんからり、ありだけこたけ引出しても、継ぎきれ一尺あらばこそ、葛寵長持衣裳櫃
「これほど空になったか」
と舅は怒りの目玉も据り、夫婦が心は今更に明けて悔しき浦島の炬燵布団に身を寄せて、火にも入りたき風情なり。

「この風呂敷も気遣ひ」
と引解き取散らし
「さればこそ/\これも質屋へ飛ばすのか。ヤイ治兵衛、女房子供の身の皮剥ぎ、その金でおやま狂ひ。いけどうずりめ、女房どもは叔母甥なれどこの五左衛門とは赤の他人、損をせう誼みがない。孫右衛門に断り兄が方から取り返す、サア去状/\」

と七重の扉、八重の鎖、百重の囲みは遁るゝとも、遁れ方なき手詰の段。

「ヲ、治兵衛が去状、筆では書かぬ、これ御覧ぜ。おさん、さらば」

と脇差に手をかくる
縋り付いて
「なう悲しや、父様、身に誤りあればこそ段々の詫言。あんまり理運過ぎました。治兵衛殿こそ他人なれ、子供は孫、可愛うはござらぬか。わしゃ去状は受取らぬ」
と、夫に抱付き声を上げ泣叫ぶこそ道理なれ。

「よい/\去状入らぬ、女郎め来い」
と引立つる。

「いや私ゃ行かぬ。飽きも飽かれもせぬ仲を、なんの恨みに昼日中、女夫の恥はさらさぬ」

と泣き詫ぶれども聞入れず

「この上になんの恥、町内一杯喚いていく」
と、引立つれば
振放し、小腕取られよろ/\と、よろめく足の爪先に可愛やはたと行当る
二人の子供が目をさまし
「大事の母様なぜ連れて行く、祖父様め。今から誰と寝ようぞ」
と慕ひ歎けば

「ヲ、いとしや。生れて一夜も母が肌を放さぬもの。晩からは父様と寝ねしや、や。二人の子供が朝ぶさ前忘れず、必ず桑山飲ませて下され。なう悲しや」

と言ひすつる

跡に見捨つる

子を捨つる



藪に夫婦の二股竹、永き別れと



ゆるかわ文楽LINEスタンプ

https://line.me/S/sticker/7110818
¥120