【床本】天満紙屋内の段・口 (心中天網島) | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫

◾️心中天網島


天満紙屋内の段・口



令和元年九月文楽東京公演チラシより引用





福徳に、天満あまみつ神の名をすぐに天神橋と行き通ふ、所も神のお前町、営む業も紙見世に、紙屋治兵衛と名を付けて千早ふるほど買ひに来る。かみは正直商売は、所柄なり老舗なり。

夫が炬燵に転寝を枕屏風で風防ぐ、外は十夜の人通り見世と内とをひと締めに、女房おさんの心配り

「日は短し夕飯時。市の側まで使に行て、玉は何をしていることぞ。この三五郎めが戻らぬこと、風が冷たい、二人の子供が寒からう。お末が乳の飲みたい時分も知らぬ、阿呆には何がなる。辛気な奴ぢゃ」



と独りごと。

「かゝ様一人戻った」
と走り帰る兄息子。
「ヲ、勘太郎戻りやったか。お末や三五郎は何とした」
「宮に遊んで乳飲みたいとお末のたんと泣きゃりました」

「さうこそ〳〵、こりゃ手も足も釘になった。とゝ様の寝てござる炬燵へあたって暖まりゃ。この阿呆めどうせう」



と待ちかね見世に駆け出づれば、

三五郎たゞ一人のら〳〵として立帰る。


「こりゃたわけ、お末はどこに置いて来た」

「ア、ほんにどこでやら落してのけた。誰ぞ拾たか知らんまで。どこぞ尋ねて来ませうか」


「おのれまあ〳〵大事の子を怪我でもあったらぶち殺す」


と、喚くところへ下女の玉、お末を背中に

「ヲゝ〳〵いとしや。辻で泣いてござんした。三五郎守りするならろくにしや」

と喚き帰れば、


「ヲ、可愛や〳〵。乳飲みたからうの」


同じく炬燵に添へ乳して、


「コレ玉。その阿呆め覚えるほど喰らはしゃ〳〵〳〵」


と言へば三五郎かぶり振り


「いや〳〵たった今お宮で蜜柑を二つづゝ喰らわせ、私も五つ喰うた」


と、阿呆のくせに軽口だて
苦笑ひするばかりなり。

「阿呆にかゝって忘りよとした、申し〳〵おさん様。西の方から粉屋の孫右衛門様と叔母御様。連立ってお出でなされます」


「これは〳〵そんなら治兵衛殿起こそ。なう旦那殿起きさしゃんせ、母様と伯父様が連立ってござるげな。この短い日に商人が、昼中に寝たふりを見せてはまた機嫌がわるからう」


「おっとまかせ」

とむっくと起き、算盤片手に帳引寄せ

「二一天作の五、九進が三進六進が二進、七八五十六」
になる叔母打連れて孫右衛門内に入れば、

「ヤ兄者人、叔母様これはようこそ〳〵まづこれへ。わたくしはたゞ今急な算用いたしかゝる。四九三十六匁三六が一匁八分で二分の勘太郎よお末よ、祖母様伯父様お出ぢゃ、煙草盆持っておじゃ、一三が三、それおさんお茶上げましゃ」


と口早なり。

「いや〳〵茶も煙草ものみには来ぬ。コレおさん、いかに若いとて二人の子の親。結構なばかりみめではない。男の性の悪いは皆女房の油断から。身代破り女夫別れする時は男ばかりの恥じゃない。ちと目をあいて気に張りを持ちゃいの」


と言へば、

「叔母様愚かなこと。この兄をさへ欺す不覚悟者。女房の意見など暖かに。ヤイ治兵衛。この孫右衛門をぬく〳〵とだまし、起請までかやして見せ十日もたゝぬになんぢや請出す。エ、うぬはなあ、小春が借銭の算用か、おきをれ」


と算盤おっ取り庭へぐわらりと投捨てたり。

「これは近頃迷惑千万。先度より後今橋の問屋へ二度、天神様へ一度ならでは敷居より他出ぬわたくし。請出すことはさておき、思ひ出しも出すにこそ」

「言やんな〳〵昨夜十夜の念仏に講中の物語。曽根崎の茶屋紀の国屋の小春という白人はくじんに、天満の古い大尽が他の客を追ひのけ、すぐにその大尽が今日明日に請出すとのこれ沙汰。売買い高い世の中でもかねと戯けは沢山なと、色々の評判。

こちの親父五左衛門殿、常々名を聞き抜いて、『紀の国屋の小春に天満の大尽とは治兵衛めに極った。嬶のためには甥なれど、こちは他人娘が大事。茶屋者請出し女房は茶屋へ売りをらう。着類きそげに傷付けられぬ間に取返してくれう』と、沓脱ぎ半分下りられしを『ノウ騒々しい神妙しんびょうにもなることを。明さ暗さ聞届けて上のこと』と押しなだめ、この孫右衛門同道した。

孫右衛門の話には『今日は昨日の治兵衛でない、曽根崎の手も切れ本人間の上々』と、聞けば後からはみ返る。そもいかなる病ぞや。そなたの父御は叔母が兄。いとしや光誉道清往生の枕を上げ、『婿なり甥なり治兵衛がこと頼む』との一言は忘れねど、そなたの心一つにて頼まれし甲斐もないわいの」


とかっぱと伏して恨み泣き。

治兵衛手を打ち

「よめた〳〵。取沙汰のある小春は小春なれど、請出す大尽大きに相違。兄貴もご存じ、先日暴れて踏まれた身すがらの太兵衛、妻子眷属持たぬやつ。銀は在所伊丹から取寄する、とっくにきゃつめが請出すをわたくしに押さへられ、この度時節到来と請出すに極まった。われら存じも寄らぬこと」


と言へば、おさんも色を直し

「たとへわたしが仏でも男が茶屋者請出す、その贔屓せう筈がない。こればっかりはこちの人に微塵も嘘はない。かゝ様、証拠にわたしが立ちます」

と、夫婦の詞割符も合ひ
「さてはさうか」
と手を打って叔母甥心を休めしが

「ムヽものには念を入れること。まづ〳〵嬉しいとてもに心落付くため、頑固かたむくろの親父殿疑ひの念なきやうに誓紙書かすが合点か」


「なにがさて千枚でも仕らう」

「いよいよ満足、すなわち道にて求めし」

と孫右衛門懐中より、熊野の牛王の群鳥、比翼の誓紙引換へ、今は天罰起請文、小春に縁切る思ひ切る、『偽り申すにおいては上は梵天帝釈下は四大』の文言に、仏揃へ神揃へ紙屋治兵衛名をしっかり血判をすゑて差出す。


「アヽ母様伯父様のおかげでわたしも心落着き、子仲なしてもつひに見ぬ固め事、みな悦んで下さんせ」

「ヲヽ尤も〳〵、この気になれば固まる、商売あきない事も繁昌しよ。一門中が世話やくも、みな治兵衛ためよかれ、兄弟の孫ども可愛さ。孫右衛門おぢゃ、早う帰って親父に安堵させたい。

世間が冷える、子供に風邪ひかしゃんな。これも十夜の如来のおかげ、これからなりともお礼の念仏。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」


と立帰る心ぞ






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