https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2019/9128.html
国立劇場令和元年九月公演チラシより引用
10分で分かる「心中天網島」その1・上
10分で分かる「心中天網島」その1・下
10分で分かる「心中天網島」その2・上
10分で分かる「心中天網島」その2・下
その3
「大和屋の段より名残の橋尽くし」上
備前島の東、淀川の土手には漁家が軒を連ねていた。
商売道具の網は毎日軒に干していたので、その様子からこのあたりは網島と呼ばれていた。
その網島で朝早く仕事に出た漁師が、首を吊った男性の遺体と、傍に羽織に覆われた女性の遺体を見つけたのは十月の十五夜が明けた日であった。
その十五夜は特に冴えた月の晩であった。
夜警が「ご用心、ご用心」と遠くで拍子木を打ち鳴らしながら歩いている。
恋も、情けも、この新地を要としているのだ。
行き交う全てが混沌と交わり、やがて漆黒の色となる。
賑やかだった新地の通りも、日付も越した深夜ともなるとひっそりとしたものだ。
流れる蜆川の音さえ、身を潜めてしまったかのようである。
大和屋に迎えの駕籠がやってきた。
ここにいる遊女の誰かを迎えにきたのである。
上の町からやってきたその下女は、大和屋のくぐり戸をいそいそと潜ると「小春さんのお迎えです」と言った。
やがて下女は大和屋から出てきて、駕籠をかついでいた男たちに「小春さんは今晩お泊りやそうや。駕籠の衆、今日はこれで帰ってくださいな」と言い、言い残したことがあったのか、再び大和屋のくぐり戸を開けた。
「おかみさん、小春さんに気をつけてくださいな。太兵衛さまの身請けも確約していて、もうお金も受け取っているのです。もはや、預かりものともいえる身ですから」
茶屋の茶釜は深夜まで湯を沸かし続けているが、さすがに深夜二時から四時あたりまでは休ませる。
そのくらいの時間にもなると、燭台のろうそくは短くなっていた。
光も細く、闇に呑み込まれる寸前のようである。
川風も寒い。
霜が降りていた。
行方をくらました弟のために気をもんだ孫右衛門は、説得をするため弟の子の勘太郎を丁稚に背負わせ、思い当たるところを探し歩いていた。
大和屋の行灯がついているのを見つけ、駆け寄った。
「少々お尋ねしたいことがございます」
扉を叩いた。
扉のうちから寝ぼけごえの男の声が応答した。
「こちらに紙屋治兵衛はいませんか」
扉越しに孫右衛門は尋ねた。
「治兵衛さんでしたら先ほどまでいましたよ」
ようやく手がかりである。しかし、先ほど、ということはもういないのか。
「京都へ上ると言ってもう発たれました」
それっきり、大和屋の中から声はしなかった。
ここを出たばかりと言うのなら、道中で会いそうなものだ。
京都へ行くというのは納得がいかない。
孫右衛門は心配で身が震えた。
小春を連れていってはいないだろうか。
孫右衛門はもう一度大和屋の扉を叩く。
「もう寝ました」
苛々とした男の声が応えた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ない。失礼ですが、小春さんはお帰りになられましたか」
「二階でお休みになってる」
それを聞いた孫右衛門はまずひとつ心が落ち着いた。
とりあえず心中の心配はなさそうだ。
しかし、どこに隠れたのやら。
舅の恨みから無分別なことをしないかと、兄は気が気でなかった。
「三五郎」
勘太郎を背負う丁稚の三五郎である。
「あの阿呆が他に行きそうなところに心当たりはないか」
そんな質問に、三五郎は「阿呆」とは自分のことだと勘違いをした。
「知ってるけど、恥ずかしくてよお言わんわあ」
「どこでもいい、心当たりのあるところを言ってくれ」
「叱らんといてくださいよ。あのな、実は毎晩ちょこちょこと河岸の安い娼婦を目当てに歩いてましたんや」
「馬鹿者、お前のことを聞いているんじゃない。次は裏町を探すか。
三五郎、勘太郎に風邪をひかすなよ。
かわいそうに、ろくでもない父をもって、冷たいめにあってしまったなあ。
冷たさもこの程度ですんでくれれなよいが。
治兵衛、これ以上悲しいめをさせないでくれよ」
そうして、「三五郎、行くぞ」と孫右衛門は大和屋をあとにした。
治兵衛はまさしく孫右衛門が大和屋を訪ねる直前に出ていた。
出たところで知った人影を見て驚き、慌てて大和屋の向かいの家の陰に身を隠していたのだった。
目と鼻の先で孫右衛門と三五郎の会話を聞き、「こんな極悪人のために、何から何までご迷惑をかけて申し訳ない」と呟いて二人と我が子の後ろ姿を見送った。
「このうえは、子供のことを、よろしくお願いいたします」
太兵衛に大坂中に謂れもないことを吹聴されること、改心したにもかかわらず舅に妻を連れ帰られ、夫からしか突きつけることのできない離縁を無理矢理に成立させられてしまったようなこの状況に、治兵衛はもはや男も精神も保てない状況だった。
そうして、おさんの読みの通り、小春のほうは太兵衛に身請けされるような不義理をおかすのならば死ぬつもりであった。
今夜の逢瀬は、ふたりの覚悟の一致であった。
治兵衛は大和屋のくぐり戸の隙間からそっと中を覗いた。
小春の影が見えた。
夜警の拍子木に混じえて、治兵衛は合図の咳払いを送った。
かっち、かっち。
「えへん、えへん」
容姿が醜いと自らを恥じて昼間は隠れて姿を見せなかったという葛城の神のように、姿を隠し、小春が出てくるのを待った。
やがて音を立てないようゆっくりとくぐり戸から小春の姿が見え始めた。
「小春、待たせた」
「治兵衛さま、早う行きたい」
急く心をおさえ、戸の滑車の音がならないよう、外側から治兵衛は戸を持ち上げながら開けるのを手伝った。
きりきりとかすかに響く音でさえ、研ぎ澄まされた神経に響き、わんわんと鼓膜を震わせる。
そのままその振動は胸の中に落ち、心が震えた。
その震えは手先にまで伝わり、戸を持つ手に脂汗が伝った。
定規の目盛りほどではあるが、だんだんと戸は開く。
一寸先の闇のために、戸は開いていった。
ようやく小春が戸から身体を滑らせて出ることができた。
誰にも見られないよう、互いに手に手を取り交わした。
北か。
南か。
西か。
東か。
行くところはどこでもいい。
身も心もあせり、足にまかせて、ふたりは蜆川の流れとは逆へ走って闇の中へ消えていった。
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国立文楽劇場
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