今日は、豊竹山城少掾師匠の戦時中・戦後のお話。「山城少掾聞書」より | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫

       
  戦時中・戦後の文楽の様子







見台








人形浄瑠璃文楽の太夫
たゆう
をしている咲寿太夫
さきじゅだゆう
です。



豊竹山城少掾師匠という方は、わたしの師匠の師匠にあたる方でございます。

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豊竹山城少掾
絵本太功記「尼が崎の段」



わたしの師匠のお父様、八世竹本綱太夫師匠は山城少掾師匠の一番弟子、そしてわたしの師匠が山城少掾師匠の末弟となります。


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妹背山婦女庭訓「山の段」
妹山 豊竹山城少掾・鶴澤藤蔵
背山 竹本綱太夫・竹澤弥七



芸の面では至極の芸をなさり、今や伝説の方となられている師匠なのですが、私生活では不幸が続き、ご家族は皆さまお子さま含め山城師匠よりも先にお亡くなりになってしまいました。



そんな山城少掾師匠の聞き書きが、茶谷半次郎氏著で残っております。

刊行は昭和二十五年八月五日。

終戦は昭和二十年の本日ですので、まさにリアルなお話が記されております。




本日はその中のひとつのお話を引用・ご紹介させていただきたく思います。



インタビュー日時は昭和二十年十月。

戦後たった一ヶ月半でございます。



文楽の資料を膨大に収集されていたことで有名でしたが、大阪空襲で全てが焼けてしまいました。
その頃のお話です。











それに、なにしろすっかり焼いちまいましたんでね・・・。

若い時からそんなことが好きで、眼についた義太夫に関した新聞や雑誌の記事の切り抜きを貼って、それへ書き入れをした切り抜き帳だけでも二十冊の余も溜まっていたでしょうか。

それに番付、そんなものでも残っていますと、また話の糸口にもなるのですが・・・。

以前に安藤さんが都新聞にかいてくれられた自伝のあとも、覚書は大方できていたんですが、それも焼いちまいました。

高野口にいるあいだに、いくらでも暇があったんですから、そんなものでも書いてりゃよかったんですが、なんだかボンヤリしっちまって、なんにも手につきませんでした。

<中略>

なにもかも焼いてしまった文楽座と、四、五十人の座員のこの先がどうなるだろう、とそんなことが頭に浮かんで、時にはおちおち眠れない夜もありました。

<中略>

院本
まるほん
*1だけは、まったく惜しいことをしたと思います。
*1 院本・・・義太夫節の一曲全部の詞章を収め、曲折をつけた板本。全ての「段」が収録されている。

近松物は確かあと一、二冊で皆揃うはずでした。
普通に学者がたの研究では百二十何冊ということになっているんですが、近松と推定されるものを入れて百五十冊ありました。

紀海音が五十冊、それにご承知の絵入りのシラミ本なども相当にありました。

版下まで集めていたのですが、これなど永久に消滅したわけです。

早くから疎開するように勧められていたんですが、手許から離すのが、なんとなく心淋しかったばっかりに、ついぐずぐずしていて残念なことをしました。

番付なんかも享保から昭和までの大阪、江戸、京都、そのほか各地のものを寄せて三千五、六百枚はあったはずです。

<中略>

あの晩(昭和二十年三月十三日 大阪空襲)ですか?

文楽座は休場中で、ズット宅におったんですが・・・はじめの内はすぐ向こうのお医者さんの三田さんの地下室、川っぷちの家なので、うしろが地下室になっている所へご近所の方と一緒に、家内とふたり避難いたしておりました。


南のほうの空がぼーっと赤くなるのが窓から見えておりました。


常から大事なものをいれている手提げ鞄と、ほかに風呂敷包み一つだけ持って出たんですが、数珠を忘れたことに気がついて家内に取りに戻ってもらいました。

<中略>

三度目に私が出かけました時には、もう、そこら中燃え出していて宅にも火が廻っていましたので、こりゃいけないと思って、家内を連れ出しに三田さんへ引返して戸口を入ろうとすると、ガラスの庇をぶちぬいて、私の右肩へドスンと一つ焼夷弾の破片のようなものが落ちてきました。

私は背中と胸とを座布団で挟んだような格好のものを着けて、その上に頭巾をかぶっていましたので怪我はありませんでしたが、ほんの一足の違いで脳天をやられていたことを考えると寒くなります。

<中略>

ともかく風上へ廻ろうと思って、熱風と人波のなかを御堂筋の本町の角まで落ち延び、あすこの電車道で、雨に濡れながら朝まで休んでおりました。

・・・あの晩、そうして火に追われて逃げている最中に、なんべんも念頭をかすめたのは、こんな時に子どもたちがいたらどんなに気がかりなことだろうということでした。

子どもたちがいなくって本当によかった。
本当にそう思いました。

それと、文楽もこれでいよいよお仕舞いだと思うと、なんともいえない寂しい気持ちがいたしました。

<中略>

この家へ移ってまいりました日に、表を締めて、一同が奥座敷に集まって夕食をやっておりまして、家内が何かを取りに台所へまいりますと、表で、ご免、ご免、という声がしますので、どなた?と聞くと、生田です、というようなことで、織太夫(今の綱太夫*2)が復員して帰ってきたんです。
*2 八世綱太夫師


<中略>

織太夫は飛行機へはいっていまして、終戦の時はこの近くの高射砲陣地にいたんだそうです。

それからしばらくして、つばめ太夫も帰ってまいりましたが、これは大湊の海兵団から復員してきたんです。
つばめ太夫の東京の家も焼けて、家族の居所も分からぬにつけて音信もできず、安否を気遣っていたんですが、復員の際に貰った一本のビールを、私に飲ますつもりで遠いところから大事にさげてひょっこり帰ってきたんです。

朝日会館で文楽の復興公演をいたすについては、<中略>出し物は制限されてもどうにか賄ってゆけましたが、小道具など足らぬものだらけで、私の役は「お俊伝兵衛、堀川」でしたが、枕がない、行灯がない、お俊と伝兵衛が落ちてゆく時の編笠がない、背景なども下手にいつものあつらえの材木小屋の書き割りもなしに黒幕ですます始末で、どうも浄瑠璃の文句と、ところどころ辻褄が合わないで変な工夫でしたが、やるほうの私どもの気持ちは、あの時ばかりは皆一生懸命で、舞台で死ねば本望だという捨て身の気持ちでした。

<中略>

文楽座は四ツ橋の旧の小屋の外廓が残っとりますので、あすこを仮り普請して近々復興することに決まっております。

・・・ただし、演目が非常に制限されることになりまして、敵討ちがいけない、惨酷な場面はいけない、心中物は構わないが舞台で心中さしちゃいけない・・・そうなると、世話物ならまずいいということになるんですが、時代物の大物は大半封じられたというかたちで手も足も出ません。

<中略>

(座敷の前のこっち側の河原に進駐軍のブルドーザーが置いてあるのがガラス越しに見える。作業の休みの日か、兵隊はいない)

・・・えらいもんですよ。
見てるまにやってのけましたよ。

(そういって、師は障子を開ける。川上から川下へかけて河原は地ならしされ、坦々とした道路が出来ている。やや迫る暮色のなかに比叡山の、比叡山の馴染みある山容が、東山の端れに高く浮かんで見える)









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国立文楽劇場

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国立劇場



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