大阪のキタとミナミの秘密。曽根崎心中の曽根崎はやがて歓楽街へ。その1「北新地」 | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫


大阪のキタとミナミの秘密。その1













大阪といえば、キタ!ミナミ!!

キタは北で梅田(大阪駅)付近、ミナミは南で難波駅付近なの




今日はこのふたつのエリアが今の賑わいからは想像もつかないようなお話をします





こんばんは!!!


このブログのアシスタントのシェリーです。

咲寿太夫さんはしばらくブログをお休み中です。

なのでわたしがしばらくの間、文楽のことや上方文化のことを更新していきますよっ


わたしはハーフなので、日本語は大丈夫なのだけれど、たまに間違うかもしれないので、間違いがあれば、咲寿太夫さんじゃなくて、わたしシェリーに宛ててコメントをくださいね。







さてさて。


わたし堂島ロール好きなんだ



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堂島ホワイトロール





大阪のお土産でも有名だよねっ




そんな堂島ロールの「堂島」は土地名なの




さあ、ここでGoogleマップさんの登場でーーーす






じゃん

大阪市です。



難波が南にあって、梅田が北にあるのが分かりますか



そして、堂島というのはココ




近松門左衛門が曽根崎心中を書いた頃、堂島の下にある中之島に各藩の蔵屋敷があって、その下のエリアが船場
せんば
だったの。



船場についてはここに詳しく書いてます



つまり商業エリアのすぐ北にあったのが、堂島だったの。


だからこのエリアは自然と歓楽街になった





堂島新地とよばれ、賑わっていたの。



曽根崎心中のお初の天満屋も堂島新地にあった。



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曽根崎心中








それで、この堂島新地より北なんだけれど、実は堂島のすぐ北に川が流れていた。




それがこの川。

蜆川
しじみがわ





蜆川の名前は世話物に度々登場する。



中之島より北は、湿地帯で全く活気のない土地だったの。



それが時代とともにだんだん開発されていく



堂島新地が誕生したのは元禄元年。
1688年のこと。



曽根崎心中の実際の事件が起こったのは元禄16年、1703年。


お初と徳兵衛が心中したのはこの曽根崎の森の中








そして、この曽根崎よりも北は、なんと広大な墓地エリアだったの








人がいなかった土地だったのね。




それがちょうどこの事件の起こった1703年から蜆川の北の土地の開発が始まって、その5年後、曽根崎新地として歓楽街になった。


その土地が、今は北新地とよばれているわ、紳士諸兄。



堂島はというと、たった20年ほどの間にたくさんの色恋沙汰と事件と逸話を産んで、歓楽街からビジネス街へと変貌していった。







さっき、梅田エリアは湿地だったといったけれど、この湿地を埋め立てて土地を作ったから、もともとは埋田だったんだって



それが転じて梅田になったの。






その同じようなことが、ミナミでも。。。









続きはまた明日



その2でお会いしましょ





シェリーでした
















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週刊誌記者
近松門左衛門