伝統、伝燈、普遍、戯言。黒澤映画と、近松以後。 | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫
       
  戯言だけれどね







見台








下の文章、本日のブログは戯言だと思って、気軽に読み流してください。

西尾維新さんでしたら、文末に「戯言だけれどね」とか「今回のオチ」とかいう風に書かれるでしょうなあ。


つい先日、かの黒澤監督のドキュメンタリーのような番組が放送されてましたんや。

そうして、その中で山崎監督(三丁目の夕日など)が言うてはりましたのは「映画というのは年間何千本も作られる。それでこうして後世にまで見続けられる、映画というのはたった数本しかない。黒澤監督の映画は今見ても感情的に通ずる部分があるんです」とまあこういった内容でしたやろか。

よう考えたらほんまその通りで。

毎年毎年話題になる映画というのはたくさんあるけれども、その中で半世紀、一世紀もの先の人が見る映画というのはほんの一握りなんですな。

スターウォーズかてその中の一つに入るんでっしゃろうけど、それですら黒澤監督へのオマージュや言うてはりますもんなあ。


ただし、得なことに映画は形に残りますのや。

いっぺん作られたら、その瞬間のその役者はんと監督の意志がそのフィルムに焼き付きますのや。



舞台はそうはいきまへん。

舞台は生きてるとはよう言うたもんで、無論、役者の心理的な発想からの言葉ではあるんですけれども、舞台のその一瞬一瞬に生まれるものはその場の場内にしか存在しまへんのや。
いくら映像化してもそれは別物になります。
映像として、ここだけをピックアップしてほしいといった意図ではないんですわ、舞台て。

そやから、伝統芸能言われるんですなあ。

伝える燈と書きまして、むかしは伝燈と言うたそうですけれども、聖火リレーのように火を継いで行くんですな。


そうして、初演当時の役者が考えたこと、作曲者が考えたことを伝えていく。

文楽のさらに困ったことは戯曲なんですな。


七五調の言葉で(近松門左衛門は例外ですが。と言うか近松門左衛門の脚本からさらに語り良いように進化した結果七五調が定着したと思われます)、太夫の語る文章というのは昔のままです。と言うのも戯曲やからですな。三味線との共同作業ですねん。
せやから一分の隙も変える余地がないんですな。

ピアノを思い浮かべてください。

ベートーヴェンの月光を譜面通りに弾かない場合、それはすでにアレンジと言うことになりますな。

ベートーヴェンの月光ではない。
リスペクトした、何か。

ただし、ベートーヴェン本人が弾いた音源は残っていないから、彼が本当に意図したことは推察するしかないし、譜面をまずはなぞって模倣し、その上で演奏者本人の解釈がはいって、同じ音符、同じ音の連なりなのに、演奏者によって個性が出てくる。


文楽もそうなんです。






おもろいんですわ。

義太夫。




でもやろ思たら死ぬほど難しいんですわ。
義太夫。




だから残していかなあかん思いますねん。



人形浄瑠璃文楽もそれはもう星の数ほどの演目が生まれ、再演に至らなかったものです。


その中で、現在も上演されているのは三百年や四百年近くの作品群との競争に打ち勝ってきたと言うことですな。


では、なぜいつ上演しても人気なのか。

観客の皆様にお楽しみいただけるのか。

見たいと思うのか。




それが、先ほどの山崎監督の言葉に隠されていると思うんですな。




黒澤監督の映画は今見ても感情的に通ずるものがあるんです。



人間てなものは、文化や政治の制度、国の有りようが変わっても、感情の在りようは変わらんのです。

これがおそらく究極や思うんです。




情は普遍であり、おそらく情がなくなった時は人間が滅ぶ時でしょうなあ。



マトリックスのように、AIが世界を乗っ取っているかもしれませんな。


そないなったら、文楽はもうできまへんな。





機械が情を持つようになっても、それが人間と同じ情になる保証はありませんしな。




また違った種類の違った情が産まれるのでしょう。





人が共感できる情を伝える。


その媒体が、浄瑠璃の作品であり、現在にまで語り継がれた普遍の情を描いた作品である。



途方もないことですな。



まだまだ若造ではございますが、この奇跡だけは肌にしみてわかります。






人の情は普遍だ。





だから、文楽は伝燈されている。

なぜなら、普遍だから。
現在進行で、人が感情移入できる情を描いているから。



舞台が封建社会でも武家社会でも朝廷の時代でも、恋はしていた。嫌な上司はいた。不倫もした。自殺もした。横領もしたし、賄賂もわたした。復讐もしたし、それが英雄譚にもなった。

描いているのは歴史の教科書ではありまへん。むしろ当時の幕府に睨まれんように、時代をわざわざ変えて作っている作品がようけあります。

時代考証がなってへんと言う人がたまにいてはりますが、ちゃうのです、時代設定を移してまで、人が感動したかった情の物語があるんです。




それが、文楽です。




いっぺん観にきてくださいね。



お待ちしとります。








・・・戯言だけれどね。















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