早わかり!近松門左衛門。 | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫
       
  近松門左衛門という人








武士から浪人へ

身地は越前という説が有力です。

武士の家に産まれた近松門左衛門は、幼い頃は次郎吉と名乗っていました。

その名の通り、次男です。



由緒ある武士の家でしたが、やがて近松の父は浪人となり、一家は京都へと移り住みました。



この頃の京都、四条通りは一大娯楽街として栄えていました。

芝居や見世物小屋など様々な興行が行われていたのです。

当時、能は由緒正しき芸能。ニューウェーブの新たな芸能として人形浄瑠璃と歌舞伎が誕生し、庶民の間にブームが起こり始めていたころでした。





公家でバイト

き日の近松は、公卿のところで勤めていました。

公卿の中でも太政大臣や左大臣・右大臣、三位以上の三槐さんかい九卿きゅうけいに仕えていました。

つまり、高位の公家のところで働いていたのです。



とはいえ、一つの家でずっと働いていたわけではなく、何人かの元で身辺雑事をこなすお手伝いさんのアルバイトのようなことをしていたのだとか。


この間に広い教養を積んだ近松は、勤め先の公家の正親町卿が宇治加太夫のために浄瑠璃を書き下ろす作業を手伝ったと言われています。



公家のもとには様々な芸人たちが招かれて芸を披露していました。

近松も芸に触れる機会は非常に多かったと思われます。






竹本義太夫と近松

松の記録に残るもっとも早い浄瑠璃は31歳の時に書いた「世継曽我」です。

1683年、初演は宇治加賀掾。

宇治座でした。


さて、この宇治加賀掾は興行師の竹屋庄兵衛とコンビを組んでいましたが、ケンカ別れをしています。
竹屋庄兵衛は、加賀掾のもとにいた清水五郎兵衛を引き抜き、新たな一座を作りました。


その一座が翌年の1684年に「世継曽我」を上演したのです。


その時の太夫が、
清水五郎兵衛改め
竹本義太夫

竹本座の開場こけら落としだったのです。


竹本義太夫による「世継曽我」が大ヒットを記録。

大阪中の見物客たちがメインの節を真似して語ったと言われています。






さらに竹本義太夫は1685年に近松門左衛門へ直接執筆依頼をしました。

そして完成した「出世景清」がロングランヒット。

この出世景清以前を古浄瑠璃、以後を新浄瑠璃というほどです。





曽根崎心中

て、この間も近松は京都在住で、さらにはこの後50歳になるころまで歌舞伎劇作家として活躍します。

手を組んだのは6歳歳上の初代坂田藤十郎


歌舞伎作家としても数々のヒット作を生み出した近松は51歳のころ、たまたま大坂へ来ていました。


1703年のことです。


そこを引き止めたのが、竹本座の人でした。


なんでも、大坂の町中で評判になっている心中事件があるとのこと。
これを題材に浄瑠璃を書いてほしいと依頼されたのです。


そう。





それが、
曽根崎心中です。




事件から約一ヶ月で完成、上演し、空前の大当たり。

競争相手に押され気味で苦境を強いられていた竹本座は曽根崎心中で経営を立て直しました。


浄瑠璃というのは戯曲で構成されているので、一ヶ月で上演までこぎつけるというのがどれ程異常なスピードかという話です。

台本を作成、曲を付け、節を付け、人形の振り付けを作る。

これを一ヶ月でやってしまったというのですから、相当な離れ業です。




浄瑠璃にはこれまで世話物というジャンルがありませんでしたが、この曽根崎心中により、世話物が確固たるものとして誕生しました。






新たなスタート

かし! ここにきて新たな問題が勃発します。


曽根崎心中の大成功を経験した竹本義太夫(受領してこの頃は竹本筑後掾となっていました)はもうこれ以上の望みはないと芸能界引退を決め、仏道に進むと言い出したのです。


スーパースターの引退は、せっかく体制を立て直したばかりの竹本座には打撃が大きすぎます。



なんとか竹本義太夫を引退させないため、当時からくりの方面で売れっ子だった竹田出雲が経営責任を引き受け、さらに近松門左衛門が竹本座の専属作者の契約を結びました。


竹本義太夫の引退を引きとどめることに成功し、この新たな経営体制の顔見世公演として上演されたのが「用明天皇職人鑑」でした。






今なお生きる近松

降、72歳で死去するまでの20年あまり、国性爺合戦・冥途の飛脚・心中天網島などをはじめとしたヒット作を次々に生み出し、作成した浄瑠璃の数は時代物64編・世話物24編の実に88編になります。

単純計算で年に4から5本の作品を作っていたことになります。


世話物最後の作品である心中宵庚申などは病中に書かれており、まさしく亡くなるまで筆を走らせていた人生でした。


亡くなってからも、昭和期に入り近松作品の復活ブームがあり、当時は一度しか上演されなかった女殺油地獄が復活大ヒットし、現在まで繰り返し上演されるなど、今なおその人気は衰えるところを知りません。


近松門左衛門、日本の演劇の歴史を動かした、そんな人です。





















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