1999年のソロデビューをきっかけに、定期的に福島県相馬市に通うようになった。
ツアーでも毎年行ったし、地元企業のお祭りにも何度も呼んでもらった。
多くの知人ができ、そのうち何人かが友人となり、親戚のおじさんのような存在もできた。
震災後、初めて被災地に入ったのもこの相馬市だったし、避難所を初めて訪ねたのもここだった。
その時は恐る恐る玄関先にまでしか行けなかったけれども。
その相馬市の南に位置するのがその名の通り、南相馬市だ。
2006年に原町市、小高町、鹿島町が合併してできた自治体で、このうち原町市にはツアーで何度かお邪魔したことがあったが、恥ずかしながら合併したことも「南相馬市」という名前になったことも震災が起こるまで知らずにいた。
この中の旧小高町、現在の南相馬市小高区は福島第一原発から20キロ圏内にあったため、原発事故直後から立ち入りが制限されていた。
それが解除されたのが震災翌年の4月。
ちょうどそのすぐ後に相馬にいた僕は、初めて小高区に入った。
そのときの模様は当時のブログで。
●4月30日まとめ(2012年5月1日)
●南相馬市小高区についてのブログまとめ
先日、相馬市でのライブが昼過ぎに終わったため、2人の友人とともに小高を訪ねることにした。友人の一人は現在南相馬に勤務。もう1人はまさに小高区に自宅があった。
あれから2年。町の様子はどうなっているのだろうか?
その日は6月が始まったばかりだというのに気温が30度近くまであがる夏日だった。
あの日以来、使われなくなってしまった小高駅の駅舎の上に絵のような青空と雲が広がっている。
ライフラインが復旧し、水の安全が確認された今でも「帰宅は自由だが宿泊はできない」という状況は変わっていなかった。
理由は「今も避難指示解除準備区域に指定されたままだから」ということなのだが、友人の話を総合すれば、実際に生活が始まった場合に出るゴミの処理問題(除染問題)が解決していない、というのが大きな理由の1つだと感じた。
駅前の自転車はあの日から3年以上停められたまま。
駅舎となりのポストには誤って投函されないようにガムテープが貼ってあった。
電話ボックスには蜘蛛の巣がかかっていたが、電話はちゃんと使用できる。
左の自販機は使用できず。
駅前に掲げられた観光案内マップ。
2012年から小高神社境内で伝統行事、相馬野馬追の「野馬懸」が復活した。
その見物客用に塗り直したのか、周囲の状況には不釣り合いなほどピカピカだった。
2年前に倒壊しかかっていた食堂が、なんとそのまま。
壊すのにもお金かかるもんなあ。
ちなみにこれが2年前の写真。
この頃よりもさらに傾いているのがわかる。
駅前通りは綺麗に片付けられ、掃除も行き届いているようだった。
信号は健気に青、黄色、赤とちゃんと色を変え、夕暮れになれば街灯もつく。
綺麗に整えられた通りには誰もおらず、まるで映画のセットのようだ。
…ん!?
商店街のスピーカーからだろうか、若い女の声の明るく元気なJ-POPが流れてる!!
これはかなりシュールだ。
音の出どころを探して歩くと「小高浮舟ふれあい広場」の公衆トイレ前のスピーカーから流れている事がわかった。
※ムービーでもどうぞ。→ http://youtu.be/Boiih4FS_wg
一時帰宅した人のためだろうか、ここのトイレも自動販売機もちゃんと稼働していた。
無人の街のトイレに入って用を足すと、センサーが感知して自動的に水が流れる。
SF映画の中に入り込んだような不思議な気持ち。とにかく誰もいない。
…と思ったら、一人の女性が花に水をやっているのを発見。
そういえば通りのあちこちに鮮やかな花が咲いている。
がらんとしているのになぜかあまり寂しさを感じなかったのはそのせいだったか。
お話を聞かせてもらった。
「なんか殺風景でしょ?だから友達と一緒に花を植える事にしたんですよ。ボランティアの子たちも手伝ってくれてね。毎日水やりに来てるんです。」
駅前通りから最初の交差点までの約200メートルの間、両側の歩道に沿ってプランターに植えられた花の列が作られていた。駅前のロータリーにもカラフルに咲き乱れている。
これをたった数人で?気が遠くなるなあ。
「あそこに見えるでしょ?あれがうちの旅館。再来年、戻って来れるっていうから今は壊れたところ直してるんですよ。今?今は仮設で暮らしてます。朝ご飯食べて、花の世話して、帰ってお昼ご飯食べて、またここに来て、暗くなったら仮設に帰ります。」
小高区は平成28年4月の立ち入り制限全面解除を目指して、様々な準備を続けている。
実際に解除になれば、復旧、復興のために宿泊施設が必要になるだろう。
彼女の旅館でもその準備を始めているのだ。
「綺麗でしょ?いろんな人たちがあちこちに花植えてるんですよ。花はすごいですよ。毎年ちゃんと咲くんだから」
2年後の再始動を信じて動き出している小高の人たち。
一方で「いくら『もう安全だから帰って来ていいよ』って言われても信じられない。帰る気はない」と言い切る人たちもいる。
他の被災地域では津波や地震で家を失った人たちが仮設に住んでいる。
しかしこの地域では家が残っているのに住む事は叶わず、仮設から花の水やりに通う。
2年後の全面解除が目標というけれども、それが実現するかはわからない。
僕らと分かれた後、彼女はまたひとり黙々と作業を続けた。
それじゃあ体に気をつけて。
旅館、再開したら泊まりにきますので。
道端に花を飾る。
町はこんな人たちのこんな気持ちや行動で守られてきたのだ。
あちこちうろうろして元の場所に戻るとあの音楽は止まっていて、そして彼女はいなくなっていた。
また仮設に帰っていったのだ。
一体どうしてこんな事になってしまったんだろう。 (その2へ→)