炭釜が意識不明の危篤だ、と連絡をもらったのは1月7日のことだった。
その日、僕は2日後に控えた故郷八戸でのライブのために実家に帰っていた。
「炭釜が危篤」
その夜、同じ内容のメールが何通も何通も届いた。
同級生らが1人でも多くの同級生に知らせようと、知っている限りのアドレスにメールを送りまくったからだ。

炭釜は僕らにとって、特別な存在なのだ。


今から26年前、高校3年の夏。
硬式野球部だった炭釜宗充は、部活中に頸椎を損傷する重傷を負い、以後車椅子生活を送ることになる。
事故の直後「手と足が動かない」と言いながら救急車に乗せられた炭釜に、チームメイト達はそれほど重傷だとは思わなかったという。
翌日、監督から「炭釜は一生車椅子生活になる」と聞かされ、選手達はグランドの上で号泣した。
 
「炭釜のためにも甲子園に行くぞ!」と誓った彼らはその事故を機に1つの固まりとなり、その夏、青森県大会で優勝。本当に甲子園に出場することになる。
結局1回戦で敗退したものの、大学受験を数ヶ月後に控え気を重くしていた僕らにとって、みんなでバスに乗って甲子園まで応援に行ったのは2度目の修学旅行のようなもので、アルプススタンドでもバスの中でも、僕らは大騒ぎでそのお祭りを楽しんだのだった。
今思えば、それも炭釜のお陰だったんだなあ。


その後、炭釜はわずかに動く手を使ってパソコンのキーボードを叩いて、小説を書くようになる。
そしてついに自分の経験を元に書いた「冬子の場合」で第4回新風舎出版大賞を受賞。以後、物書きとなる。
その頃からだったと思うが、僕は炭釜とメールのやり取りをするようになっていた。同級生として、ものを作り出す同志として。
2人そろって母校、八戸高校に呼ばれて高校生相手に講演会なんてこともやったなあ。

不定期に届くメールマガジンも発行していて、その中で僕も含めた同級生の活躍を紹介してくれた。
同級生の活躍を本当に喜んでくれるやつだった。

 
1月9日朝8時過ぎ、炭釜はこの世を去った。
奇しくも地元八戸でのライブの日。
またも朝から携帯にもパソコンにも同じ内容のメールが何通も何通も届く。
同級生からの花の手配、香典の振込先、通夜、火葬、告別式の日程の連絡…。
その手際と段取りの良さを携帯の画面上で見て、それだけみんな経験を重ねたんだなあとしみじみ思う。
「今日のライブは炭釜のことを想いながら歌うぞ」と決めた。

ライブが無事に終わって、恒例のサイン会に同級生で甲子園でエースだったタンボ(本名なんだっけ?)に付き添われて、1人の女性が並んでいた。
それが初めてお会いする炭釜の妹さんだった。
兄が亡くなったその日にライブ!?まだ数時間しか経ってないのに!?
驚いた僕が「大丈夫なの?」と聞くと、彼女は「兄に見に行けと言われました。母も許してくれました」と静かに言った。
落ち着いているように見える妹さんの横で、付き添いのタンボが目を真っ赤にして「サトルの歌は炭釜に届いたよ。届いたよ…」と言葉を詰まらせる。
最後はタンボが妹さんに付き添われるようにして2人は帰って行ったのだった。

今年で8回目となるこの日のライブは、過去7回、成人の日当日に行われていたのだが、今年に限って、様々な理由から成人の日前日の1月9日開催に変更となった。
その変更になったライブの日の朝に炭釜が息を引き取り、妹がライブを見に来る。
出来すぎた話だが「そういうことだったんだなあ」とも思わせる不思議な経験だった。


1月13日、告別式。
朝5時過ぎに都内のスタジオでの作業が終わり、家に帰ってシャワーを浴び、喪服に着替えて新幹線に飛び乗る。
ホームに上がったら発車のベルが鳴っていた…という程のギリギリさで、これに乗らなければ告別式には間に合わなかった。
間に合ったのも炭釜の計らいか、と「こじつけ」の様に考えたが、それがあながち「こじつけ」でもないと思えたのは八戸市内の告別式会場に着いてからだった。

その建物は2階建てで、1階が受付、2階が会場という造りだった。
1階で懐かしい面々と再会し、受付を済ませて2階に上がって驚いた。
鮮やかな祭壇に炭釜の写真が液晶画面で飾られ、その前に300名近くが参列し哀しみに暮れている。
そして、そこに流れていた音楽が「旅の衆」だったのだ!

ここで旅の衆!?というか俺の曲!?
面食らった僕はしばし呆然。
今日、僕がここに来ることは誰にも話していなかった。自分でも間に合うかどうかわからなかったのだ。
「サトルが来るらしいから曲でも流しておきましょうか」ということではないと言うことだ。大体、いくら僕が行くことを知っていたとしても「それじゃあサトルの曲でも」という流れになる訳がない。これはパーティーや同窓会ではなくて、わずか43年でこの世を去った男の告別式なのだ。会場備え付けのクラッシック音楽でいいではないか。

要するに、僕が来ようと来るまいとこの会場には「旅の衆」が流れたのだ。
僕はそこで初めて、炭釜が僕の曲に対して、僕が考えていた以上にとても強い思い入れを持ってくれていたことと、その事を家族の方々が充分に知っていた事を知る。
…そうだったのか。

恐らく僕に限らず、同級生への思い入れは僕らが考えていた以上のものだったのではないか?
炭釜は、自分の夢や想いを同い年の仲間の活躍に投影していたのだと思う。
車椅子の上から、僕らの目や手や足を通して世界に触れようとしていたのだ。
嬉しさと後悔と残念な気持ちが混ざった何とも言えない感情がこみ上げてくる。


場に全く馴染まなかった「旅の衆」が終わると「1日の終わりに」が流れ始めた。そうか、アルバム「1:25 PM」をそのまま流しているのだ!
幼子との別れを書いた歌詞が、別の意味に聞こえてくる。
そして「また会える日まで」。
歌詞の全てが炭釜からのメッセージに聞こえてしまう。
このまま「僕が生まれた理由」に行ってしまったら俺は泣く。多分泣いてしまう。うわー…っと思っていたら音楽はすーっと小さくなり、告別式が始まった。

告別式が終わると、時々ライブにも来てくれる同級生の淡路が近づいて来て「サトルのアルバムがずーっとかかってたんだけど『君に会いたい』は、たまらなかった」と言った。
そりゃそうだ。亡くなってしまった人に「せめて夢でいいから君に会いたい」と歌っている曲なのだ。
今日、ここにいるみんなの気持ちそのものではないか。
 
これまで何度かお葬式や告別式に出席してきたが、こんな式は初めてだった。
 

式が終わり、八戸市内の繁華街に席を移して20人程で飲んだ。
「炭釜が会わせてくれたぞ!」とひたすら飲んで話した。
みんな元気でいような。元気でいよう。

宴が終わり、日帰りチームは僕も含め6名。
最終の新幹線で3列がけの椅子をひっくり返してさらに飲んだ。
仙台で3人が降り、残された僕ら3人はチカラ尽きて爆睡。
上野で1人降りて、応援団長だった藤沢とは東京駅で別れた。
みんなこうやって別々の街に住んでいるんだな。
また会いたいね。今度は悲しい日じゃない時に。
 
 
誰もが認める「人気者、炭釜」の悲報に、当時の僕らは大きなショックを受けた。
程度の差はあるだろうが、あの時のショックは僕ら同級生にいつまでも消えない傷を残した。
卒業した後も、僕らは日本中、世界中の別々の街で暮らしながら、時々ふと思ってきたのだ。
「炭釜は今頃どうしているだろうか」と。

炭釜がいなくなった。
告別式に出席したにも関わらずそれがどうしても実感できない僕は、これからもうっかり「炭釜は今頃どうしているだろうか」と思ってしまうだろう。
いなくなったことに慣れるまでにはまだ時間がかかりそうだ。
 

炭釜は1度だけライブに来てくれたことがある。
自分が大好きな曲を歌ってくれなかったのが残念だ、というのが感想だった。
「今度来てくれた時歌うからさ」と答えたが、その機会はもうない。


チームメイトの悲劇を共有した硬式野球部員達は、事あるごとに炭釜を手伝ったり支えたりした。
17才の夏、炭釜を想ってグランドで泣いた野球少年達は、その後の26年間もチームメイトのままだった。


最後に、あの日から自分の人生を捧げて炭釜と共に生きてきた炭釜のお母様に敬意を表します。
どうかこれからはご自分の人生を楽しんでいただけますように。
長い間、本当にお疲れさまでした。


★炭釜 宗充
「冬子の場合」
その他の作品