先日、旅行で、奈良と大阪に

行ってきました。


じつは、自分の手違いで

余分に有給申請してしまい

5連休になったのですが





せっかくの休みなので

旅行にでも行ってきたら?

という、妻のあたたかい言葉を

いただいたので


  閑話休題ということで…


以前から、行ってみたかった

関西の奈良・大阪にある

 

・『大神神社(おおみわじんじゃ)』

・『住吉大社(すみよしたいしゃ)』

に参拝してきました。

インコのお世話は、妻にお願いして…



一人で出かけてきました。

妻、ありがとうございます!


職場の人に教えていただいて

「スマートEX」で、新幹線を予約し

(便利になりましたね!)




京都で降りて、近鉄線で

奈良に向かい、大和八木(やまとやぎ)

降りて、レンタカーを借り

まずは『吉野』に行きました。

(初日の天気は最高でした…)




  鉱脈の上に鎮座する『金の御嶽(かねのみたけ)


千本桜には、早かったのですが

修験の発祥とされる、役小角(えんのおづぬ)

開いたとされる『金峯山寺(きんぷせんじ)

行きました。





翌日から、秘仏

「金剛蔵王大権現(こんごうざおうだいごんげん)

が公開されるとのことでしたが




おそらくは混むと思われたので

前日に参拝できて、かえって良かったのかも

しれません(平日なので静かなものでした)。





それにしても、この山深い吉野で

鉱脈を探査しながら、蟠踞していた修験集団は

本当にやっかいだったと思います。


その昔、神社・仏閣を構えることは

領有権の主張で、それらは治外法権

一種の独立国だったからです。


「壬申の乱(じんしんのらん)」は

大海人皇子(おおあまのおうじ)が吉野で

挙兵したことから始まるともされますが

この修験集団の存在が関係した

のではないかと考えています。


 

吉野山は古くから

の御嶽(かねのみたけ)と呼ばれ

彼らが奉斎したのは

剛蔵王大権現(こんごうざおうだいごんげん)」…


吉野山一帯は古来より

黄金を秘めた聖域といわれていましたが

中央構造線の上にあり

非常に多くの鉱脈が存在したことが

わかっています。


貴重な金属(経済力)をもち、地形を熟知した

彼らはゲリラ戦も展開でき、無敵といってよい

存在だったのではないでしょうか。




そして彼らは、「国栖(くず)

海民であり山民である

ヤマトの先住民の末裔としての

性格をもっていたのだろうと

思いをはせてしまいました。


そして雰囲気が、秩父の御嶽神社に

似ているな…と感じました。



そして

『石舞台古墳(いしぶたいこふん)

『酒船石(さかふねいし)』を見て




『大神神社』に参拝しました。



  連合の象徴、母なる『三輪山(みわやま)


三輪山の良い写真が撮れなかった

のですが、はじめて見る三輪山は

やはり美しいと感動しました。




優しい丸みをおびた稜線ながら

頂上部が少し突き出し


神が降臨する「神名備山(かんなびやま)

人びとが祈り、信仰する気持ちが

とても良くわかりました。

そして(個人的には)

女性的な印象をもちました。





・大神神社境内『しるしの杉』
「三輪の神が示現した、神の降臨した杉とされる」



 三輪の大神は「蛇」とされていますが
 古代の中国では、「雷神」は蛇の姿をしていると考えられ
 空を蛇行する雷は「蛇」に例えられます。
 黄泉の国のイザナミの身体にいた「八雷神」
 「蛇神」ともされています。




 大神神社の「しるしの杉」が、神の降臨する杉と
 考えられたのは、「落雷」関係したと想像しています。
 高層建築のない古代、ときに巨木に雷神(蛇神)
 落雷(降臨)したのでしょう。


 

 雷雨は、「水」「火」をもたらし
 落雷を受けた木々は、割れることがあり
 やがて蛇(雷)「剣(つるぎ)」という概念に
 つながっていったと考えています。

 鹿島神宮の祭神「タケミカヅチ」剣神であり雷神
 ともされていますが(個人的な考えとなりますが…)
 その核には 「蛇」いると思っています。

 蛇とされる、三輪の大神は、毎夜
 「ヤマトトトビモモソヒメ」のもとを訪れますが
 (これは以前「通い婚」の比喩と書きました)
 「蛇」と強いつながりをもったのが、「尾(お)」たる
 女性巫女・首長です。





三輪山は別名「三諸山(みもろやま)といい

『諸(もろ)とは、山や岩、神籬(ひもろぎ)など

神が降臨して宿る、神聖な場所を意味します。




江戸時代、私の先祖は

群馬県の多胡郡川内(かわうち)で

名主を務め、三代目ほどまで

「諸」の字を、通字(とおりじ)にしていて

この「諸」という、めずらしい通字には

きっと、こだわりがあったのだと思います。





そして「みもろ」は、「みむろ」に通じ

「むろ」とは『室(むろ)のことで

洞窟や女性のお腹に通じ


出産を祭祀…黄泉返りと認識するなら

「むろ」は、異界に通じる聖域で

女性とは童(わらべ)同様に、境界に通じる

人たちなのではないかと、想像しています。



洞窟に、観音さまが祀られるのは

故あってのことなのではないでしょうか。


  桜井市埋蔵文化財センター』行きました!


そして、「桜井市埋蔵文化財センター」に

行き、出土した文化財も見学してきました。




貴重な「銅鐸(どうたく)をみることができます。



三輪山周辺は旧石器時代から、人が住み始め

縄文時代前期(7500年前)から、その活動が

活発になりました。


三輪山は、初瀬川(大和川)と

巻向・布留川の合流点にあたり

水も得やすく暮らしやすかったのでしょう。


祭祀遺跡は三輪山の西麓(さいろく)に多く

これは、西側からの眺めが、いわゆる

神名備型であることに起因するようです。





三輪山西麓にある

『纏向遺跡(まきむくいせき)

巨大な宗教都市であったことが

判明しています。


また標高467㍍の三輪山は

一帯のランドマークとして

深く崇敬されていたと思います。


纏向遺跡からは、西は九州から

東は南関東におよぶ、非常に広い

範囲から搬入された土器が出土していて

(これらは「外来系土器」と呼ばれます)

その規模は、全体の15〜30%に上り





3世紀、国内最大規模である纏向遺跡に

多くの「人」と「物」が集まっていたのでしょう。


やがて銅鐸も祭器としての役目を終え

ときおり出土する銅鐸の破片からは

銅鐸を破壊して、他の青銅器にリサイクル

した状況が推定されています。





  『石上神宮(いそのかみじんぐう)『イソ』とは?


そして、初日の最期は

『石上神宮(いそのかみじんぐう)に行きました




『石上神宮』は、布留山の西麓にあり

布留山の山中には磐座(いわくら)があります。


(公式ホームページへの記載はありませんが)

布留川の上流には、元宮といわれる

「石上神社」が鎮座しています




長い階段の先に小さな社がありました。




神社の背後には、落差23㍍のとても大きな

『桃の滝(もものたき)があり

地元の方がいたので、伺ったところ

「石上神社と滝は関係ない」とのこと

でしたが、はたしてどうでしょうか。


滝神に祀られるのが「瀬織津姫」です。


『尾(お)』という字が

ついているのは興味深いです。

「尾」については、前回すこし書きました)。

 





石神神宮の近くの住宅街に

「恵比寿神社」が

ひっそりと鎮座していました。






石上神宮の神社名にある『イソ』

「石」「磯」「五十」と様々に表記されますが

(「五十」は、「五十嵐(イガラシ)」…「イカ」とも訓じます)


埼玉県郷土史家の茂木和平氏は

群馬県の伊香保(イカホ)「イカ」

この『イソ』に由来し、かつての多胡郡吉井町

「池(イケ)」の地名も、この「イカ」に由来するだろう

と言われます。



群馬県南西部に栄えたのが

物部君・磯部氏で、安中市には

「磯部」の地名があります。

(もっともこの物部君は、中央の物部氏

 とは、別系統の在地の古族なのではないでしょうか)


じつは、私の祖父の一方は

新潟県佐渡ヶ島の相川町出身で

その実家は磯部です。

ちょっと不思議な縁を感じます。


さて翌日は、電車に乗って移動し

 


『石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

『住吉大社(すみよしたいしゃ)』


に行きました。



続きます。