今日もボケ老人の世迷い言です。
どうぞ、お聞き流しください。
日本人は、多くの外国の人とは異なり、玄関で靴を脱ぎ、
畳や板の間に直に坐る生活をしてきました。
それが、外国の人から、今回のコロナ感染対策にとって
有効であると言われているのは、興味深いことです。
私は、坐禅、茶道、弓道、剣道、剣術、居合術などで、
様々な坐り方をしてきましたが、
現在は正座とされる坐り方から、膝を崩して坐る「胡坐
(こざ、あぐら)」について、少々、ウィキペディアさん
から引用させていただきます。
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両膝を左右に開き、体の前で両足首を組んで座る座り方。
胡坐をして座ることを『胡坐をかく』と言い、足組(あぐむ)
とも言う。字を見ての通り胡から伝わった座り方とされる。
足の裏を見せることが失礼になるアラビアでの一般的な座り方
である。日本においても、かつては男性の一般的、正式な座り
方であった。
平安・鎌倉時代には宮廷につかえていた女官たちも胡坐を
かいていた。 その後室町時代ごろから服装の変化から胡坐を
かくと秘部があらわになる危険が生じたため、女性の間では
正座(あるいは正座を崩した、女座り、あひる座り)が
広まった。男性においても、江戸時代以降は正座が正式な
場での座り方となった。
*アンダーライン、太字は私がつけました。
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私も、日本服飾史や日本肖像画史の文献・資料で女性の装束
を幾つか見てみました。
藤原京時代の古墳の壁画(国宝)や奈良時代の図絵では大陸
風の長いスカート状の装束ですし、平安時代(794~1192年)に
入り、遣唐使が廃止され(894年)て国風文化が定着した後も、
上流婦女子の図絵では十二単やそれを略した装束で、ズボン
のような袴を着けていたようですから、胡坐をかいても
秘部があらわになる心配は無かったでしょう。
(「平将門の乱(939~940年)」は平安時代中期です。)
1192年に鎌倉時代に入り、装束が略式化されて行くことが
あっても、秘部をあらわにしないという点には大きな
変化はなかったと考えます。
室町時代、安土桃山時代頃になって、ごくごく一握りの上流
階級の婦女子が「胡跪(こき;片立膝座り)」している図絵
が出てきますが、これについては、渡来も含めて、
改めて「世迷い言」を申したいと思います。
いずれにしろ、日本女性は、昔も「端(はし)たなく」は
なかったと考えています。
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参考;胡(こ)については、幾つかの辞書に次のように掲載
されています。
*古代中国で異民族の呼称。秦漢以前は匈奴、以後は塞外民族
およびその国を指す。
*古代中国の北方・西方民族に対する蔑称。「胡瓜」、
「胡弓」、「 胡姫」のように、これらの異民族由来のもの
である事を示す用法がある。
*中国人が,初め北方の,のちに西方の異民族を呼んだ語。
中国の戦国時代には長城地帯の異民族を,漢代には主として
匈奴をさしたが,
南北朝時代以後はおもに西トルキスタンのイラン系民族,
特にソグド人を意味した。
*中国人が北方、西方の異民族をよんだ語。戦国時代には
内モンゴルに居住した異民族をさした。秦・漢時代には、
主として匈奴を示すようになったが、
パミール以西のイラン系の民族、とくにソグド人も胡と
よばれ、魏晋(ぎしん)南北朝時代以後はもっぱらソグド人
の意味に用いられた。また、胡桃(くるみ)、胡麻(ごま)
などのことばは、これらがトルキスタンから中国へもたら
されたことを示している。
*中国,秦・漢ではもっぱら匈奴をさし,シルクロードの往来
が盛んになると西域の諸民族を西胡または単に胡と呼び,
唐では広く塞外民族をあらわす一方で,特に多くイラン人を
さした。深目高鼻・青眼多鬚(たしゆ)の胡賈(こか)・胡商
は西方の文物や慣習をもたらして中国文化の世界化に多大の
役割をはたし,それは日本にも及んだ。 (了)