老爺の世迷い言 「高松塚古墳」2020.11.12 | 京都 de 茶の湯 / 西方庵

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京都・嵐山近くで、四季の移ろいを愛でながら茶の湯を楽しんでいる侘び茶人・ 笹峯宗桓のブログです。400年以上の歴史を持つ鹿児島示現流兵法の門友として、鍛練に励んでもおります。

今日もボケ老人の世迷い言です。

どうぞ、お聞き流しください。

 

いきなりですが、私、恥ずかしながら、

長いこと、奈良の「高松塚古墳」

(「国営飛鳥歴史公園館」「高松塚古墳・高松塚壁画館」など)

を訪れたいと思いながらも、まだ果たせていません。

「高松塚古墳」は、学校の教科書に載っているので、

皆様ご存知でしょうが、7世紀末から8世紀初頭にかけて

築造された終末期の二段式の円墳で

藤原京期の(694~710年)のものと確定されています。

 

1972(昭和47)年3月の奈良県立橿原考古学研究所による調査で、

石室内に極彩色の壁画が発見され、一大ニュースとなりました。

1973(昭和48)年高松塚古墳は特別史跡に、また極彩色壁画は

1974(昭和49)年に国宝に指定されています。

 

国営飛鳥歴史公園ホームページ

 

石室内の

『東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍と

その上の太陽、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、

手前から男子群像、四神のうちの白虎とその上の月、

女子群像が描かれています。

 

「男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が

描かれていますが、中でも西壁の女子群像は色彩鮮やかで、

歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真で紹介され、

「飛鳥美人」のニックネームで知られています。

 

奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天井には星辰が

描かれています。天井画は、円形の金箔で星を表し、

星と星の間を朱の線でつないで星座を表したものです。』

ということです。

ホームページの写真を見ると、確かに数人の「飛鳥美女」が

美しい「唐風」の装束を着ています。

現在の着物とは全く異なる形状の、踝(くるぶし)より長い

スカート状の装束です。

 

74年間の奈良時代(710~784年)でも、「天武・持統朝女官

朝服」「養老令による命婦礼服」「伎楽呉女」など

同じようなスタイルです。

 

その後、約400年間の平安時代(794~1192年)が続きますが、

平安時代初期の「女官朝服」は奈良時代と同じタイプです。

894年に、菅原道真によって「遣唐使」が廃止された後、

日本独特の国風の文化が発生し、隆盛したのが平安時代後半

になるでしょうから、

少なくとも、遣唐使の廃止頃までは、「唐風」の服装だったの

でしょう。

 

また、「赤く長い袴をつけた十二単(じゅうにひとえ)」や

「源氏物語」に象徴されるような「国風文化」は、

いきなり確立されたわけではなく、長い時間をかけて日本人

の中で成立したのでしょうね。 

茶の花