今日もボケ老人の世迷い言です。
どうぞ、お聞き流しください。
いきなりですが、私、恥ずかしながら、
長いこと、奈良の「高松塚古墳」
(「国営飛鳥歴史公園館」「高松塚古墳・高松塚壁画館」など)
を訪れたいと思いながらも、まだ果たせていません。
「高松塚古墳」は、学校の教科書に載っているので、
皆様ご存知でしょうが、7世紀末から8世紀初頭にかけて
築造された終末期の二段式の円墳で
藤原京期の(694~710年)のものと確定されています。
1972(昭和47)年3月の奈良県立橿原考古学研究所による調査で、
石室内に極彩色の壁画が発見され、一大ニュースとなりました。
1973(昭和48)年高松塚古墳は特別史跡に、また極彩色壁画は
1974(昭和49)年に国宝に指定されています。
石室内の
『東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍と
その上の太陽、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、
手前から男子群像、四神のうちの白虎とその上の月、
女子群像が描かれています。
「男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が
描かれていますが、中でも西壁の女子群像は色彩鮮やかで、
歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真で紹介され、
「飛鳥美人」のニックネームで知られています。
奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天井には星辰が
描かれています。天井画は、円形の金箔で星を表し、
星と星の間を朱の線でつないで星座を表したものです。』
ということです。
ホームページの写真を見ると、確かに数人の「飛鳥美女」が
美しい「唐風」の装束を着ています。
現在の着物とは全く異なる形状の、踝(くるぶし)より長い
スカート状の装束です。
74年間の奈良時代(710~784年)でも、「天武・持統朝女官
朝服」「養老令による命婦礼服」「伎楽呉女」など
同じようなスタイルです。
その後、約400年間の平安時代(794~1192年)が続きますが、
平安時代初期の「女官朝服」は奈良時代と同じタイプです。
日本独特の国風の文化が発生し、隆盛したのが平安時代後半
になるでしょうから、
少なくとも、遣唐使の廃止頃までは、「唐風」の服装だったの
でしょう。
また、「赤く長い袴をつけた十二単(じゅうにひとえ)」や
「源氏物語」に象徴されるような「国風文化」は、
いきなり確立されたわけではなく、長い時間をかけて日本人
の中で成立したのでしょうね。