茶人は貧乏?(2) 2015.09.26 | 京都 de 茶の湯 / 西方庵

京都 de 茶の湯 / 西方庵

京都・嵐山近くで、四季の移ろいを愛でながら茶の湯を楽しんでいる侘び茶人・ 笹峯宗桓のブログです。400年以上の歴史を持つ鹿児島示現流兵法の門友として、鍛練に励んでもおります。

結論から申しますと。茶道勃興期の記録に残っている貧乏な「侘び」暮らしに徹した茶人は少なく、「侘び」の考え方や茶室などの設えはともあれ、多くの茶人は相当に富裕であったと考えられます。また、多くが茶の湯を専業とせず、家業(現代で言えば巨大な商社や製造業)を営みながら、いわゆる裁量労働制のような形で茶道に従事をしていたのではないかと考えられます。また、そのため織田信長や豊臣秀吉から知行を与えられたりしています。以下、主要な人物を見て行きましょう。

 

A 村田珠光(むらた しゅこう);「侘び茶」の創始者と目される。奈良の人。父は検校という高位の富裕層の人。奈良の浄土宗寺院称名寺に入れられたが出家を嫌って上京。京都三条に住み茶の湯を学ぶ。禅僧となり、臨済宗大徳寺派の一休宗純に参禅。茶禅一味を体得し、内実化に邁進。

 

B 北向道陳(きたむき どうちん);利休の最初の師で「台子の茶」「書院の茶」を伝えた。堺の豪商、本職は医師であったとの説が有力。門弟の千宗易(後の利休)を紹鷗に推薦してその弟子とさせた話は有名。墓は菩提寺であった堺の妙法寺。利休の「侘び茶」にも少なからぬ影響を与えた。

 

C 武野紹鷗(たけの じょうおう);村田珠光の弟子。堺の豪商(武具商あるいは皮革商)・茶人。侘び茶の開祖村田珠光の茶風を仰ぎ,茶の湯の簡素化,草体化をさらに進め多くの門弟を得て珠光の茶の湯を広めた。

 

D 今井宗久(いまい そうきゅう);戦国・安土桃山時代の堺の豪商・茶人。千利休・津田宗及と共に信長・秀吉の茶湯三宗匠の一人。武野紹鷗の女婿となり、家財茶器などをことごとく譲り受けた。家業は納屋衆の中でも最高の財力を誇る。鉄砲の製造・販売を行ったという説も。信長の堺支配に積極的に協力。秀吉、家康の支配にも協力。子孫は堺代官や旗本を務める。

 

E 今井宗薫(いまい そうくん);安土桃山・江戸前期の堺の茶人。今井宗久の子。父宗久に茶湯を学び豊臣秀吉の茶頭・お伽衆となる。のちに徳川家康・秀忠・家光と三代の将軍に仕え、茶頭をつとめた。千三百石の旗本今井家を立てた。

 

F 津田宗及(つだ そうぎゅう);戦国・安土桃山時代の堺の豪商・茶人、天王寺屋財閥の総領。三十六人会合衆(えごうしゅう)の一人。茶人・武野紹鷗の子・宗瓦の門人であった父に茶道を教わる。宗久・利休と共に信長・秀吉の茶頭となる。墓は堺市の南宗寺。

 

G 千利休(せん りきゅう);戦国・安土桃山時代の堺の商人・茶人。家業は納屋衆(倉庫業(総合商社?)

屋号「魚屋(ととや)」)。幼名は田中與四郎、のち宗易。若年より茶の湯に親しみ、北向道陳、のちに武野紹鷗に師事。師とともに茶の湯の改革を推進。堺・南宗寺に参禅し、本山である京都の大徳寺とも交流する。「侘び茶」の完成者・茶聖と称せられる。一方、秀吉の側近という一面も有し、秀吉が信長から継承した茶の湯を用いた政治運営方針に伴い多くの大名に影響力をもった。

(以上)