茶人は貧乏?(1) 2015.09.25 | 京都 de 茶の湯 / 西方庵

京都 de 茶の湯 / 西方庵

京都・嵐山近くで、四季の移ろいを愛でながら茶の湯を楽しんでいる侘び茶人・ 笹峯宗桓のブログです。400年以上の歴史を持つ鹿児島示現流兵法の門友として、鍛練に励んでもおります。

「侘び」の本義は、「物質的な享楽に流れるのをやめて、ひたすらに持たざる乏しさ・慎ましさに精神の清純さを尊重」(茶道辞典より引用)するにあります。

どのようにして「侘び茶」が発展して行ったのか、2回にわたって「侘び茶」の勃興期の社会と茶人について見てみたいと思います。

 

1.「茶の湯」の勃興期の社会

将軍 足利義政がさまざまな遊芸に飽き、身の回りの世話をする同朋衆(利休さんの先祖も同朋衆の一人でした。)の奨めで夢中になったのが、新しい遊び「茶道」の始まりと云われますが、実際には義政以前より徐々に拡大しており、この逸話は茶道に権威を与えるためのものでしょう。

豪華なものを賞品とする賭け事の「闘茶」(とうちゃ)や森林浴を楽しみお風呂と豪華な食事・お酒を摂る「淋間(りんかん)の湯」などが富裕階級の遊興として隆盛しました。当初、火炉は客間の外の間に置かれましたが、次第に室内に置かれるように変遷します。権力者達の屋敷は書院造に変遷してきていましたので、抹茶は、書院で唐(中国)から主に禅寺に伝来した作法で点てられました。これが、茶道の原型ともいうべき「書院の茶」です。その後、草庵の茶「侘び茶」へと変遷して行きます。

 

次に茶道が発展したのが堺でした。資源は産しないけれども海路から首都(奈良・京都)への交通の要衝であり、国内及び外国からの物資や情報が大量に集る日本一の商業・工業都市でした。

最先端の工業技術や権力者の動向の情報などにより、現在にも引き継がれる鉄鉱業、特に鉄砲の生産で突出した土地であり、周辺の地域に綿の生産を導入・拡大して木綿織物の大産地でもありました。

なお、鉄砲は当時非常に高価であったことから、他の土地ではオーダーメイド(受注生産制)をとっていたために生産に時間がかかり生産量も限られました。一方、堺では得られた政治情報をもとにレデイメイドで大量に生産・販売して戦国時代の軍事的なニーズ応えたことが繁栄の大きな要因であったと思われます。

堺は日本一の商業都市として発展し、織田信長に屈服するまでは会合衆(富豪商人)の自治による都市国家の様態を示していました。環濠に囲まれた堺の土地は狭く、居住者は国内で唯一のアーバンライフを過ごしたものと考えられます。茶道で「市中の山居」という概念が強く必要とされたのは、このような面からかもしれませんね。

(次回に続く)