2024年11月15日(金)、上野・東京都美術館にて「奄美の光、魂の絵画」田中一村展(*1)を観た。奄美大島の動植物を独特の画風で描くこの画家のことは以前にNHKの番組で観て知ってはいたが、今回の個展は初期の作品やスケッチ等から、この“孤高の天才”の生き様まで垣間見ることが出来た。

【代表作「アダンの海辺」を用いた展示パネル】
“孤高の天才”という言葉は今をときめく大谷翔平や藤井颯太、モーツァルトやアインシュタインやチャップリンなど、飛び抜けた才能を持っているだけではなくどこかユニークな特徴を持つ規格外な人物というイメージが含まれている。そして私は敢えて彼こそそう呼ぶに相応しい画家だと思った。
彫刻家を父に持ち南画(水墨画)の神童と呼ばれて東京美術学校(現・芸大)の日本画科に入学する。ここ迄は順風満帆だが、2ヵ月で退学し茨の道を歩む。39歳で日本画の公募展に初入選するも以降は落選が続き、遂には中央画壇と絶縁する。この頃の作品は余白を無視したりと極めて前衛的だ。
公募展に1点入選しても、もう1点の落選に納得できず入選を辞退するなど受賞に拘っていた一村だか、落選を続けたことで吹っ切れたのだろう。以降は支援者を含めた他人の評価(受賞等)は全く気にせずに、純粋に自分のためだけに絵を描くことに没頭するようになり、ここから独自の境地に入る。
彼は50歳を機に南洋の島に移り住んだことから“日本のゴーギャン“とも呼ばれるがゴーギャンの様に島の人々を描くことは少なく、寧ろルソーに近い画風で69歳で亡くなるまで南洋の動植物を描き続けた。彼が辿り着いた境地はもはや日本画とか洋画といったジャンルなどはとうに超越している。

【「秋色(部分)」「不喰芋と蘇鉄」ポストカードより】
2点出品したうちの1点の落選に「納得がいかない」と入選作も辞退するということは、それほど“他人の評価”を意識していたに違いない。しかし奄美に移住して以降はひたすら自分(自己実現)のために描き続け「わが人生の最後まで絵を描き続けられること」自体に最大限の感謝の言葉を残している。
彼をして“孤高の天才”たらしめたのは他人の評価を気にせず自分の評価軸に沿って全力を尽くしたことだろう。大谷翔平も数多の受賞や周囲の期待等に関係なく自分の夢実現のために全力を尽くす姿勢を貫いている。我々凡夫が“孤高の天才”に惹かれるのは才能ではなくその姿勢ではなかろうか。
大谷翔平についても書いたが(*2)、才能ではその道の天才に遠く及ばないとしても考え方や姿勢は参考にできる。そして誰もがユニークな才能を持っていると考えれば、それを生涯をかけて探し、磨きをかけ、最大限生かすために全力を尽くすべきなのだろう。田中一村展はそんな事も教えてくれた。
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*1:東京都美術館の田中一村展は12月1日まで開催中。
*2:大谷翔平的「働き方」に学ぶ点 | Saigottimoのブログ
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