憲法講座 第5回「主権者になる!~表現の自由と不断の努力」 | 労働組合ってなにするところ?

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2008年3月から2011年3月まで、労働組合専従として活動しました。
現在は現場に戻って医療労働者の端くれとして働きつつ、労働組合の活動も行なっています。

あまり知られていない労働組合の真の姿(!?)を伝えていきたいと思います。

2024年は、再生の年です。

不正にまみれた政治を刷新し、コロナ禍で疲弊した医療・介護現場を立て直し、社会保障削減や負担増を撤回させ、防衛費倍増ではなく国民生活を豊かにするために税金を使わせ、憲法改悪を阻止し、安心して働き続けられる職場をつくるため、行動し、声を上げることを提起します。そして、戦争・紛争が一日も早く終結し、避難している人々の生活が立て直されることを願います。

そして、能登半島大地震で被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、一日も早く生活が立て直されるよう祈ります。

 

 

2月2日、岡山県労働者学習協会の憲法講座第5回「主権者になる!~表現の自由と不断の努力」にオンライン参加しました。

講師は長久啓太先生でした。

以下、概要をまとめます。

 

はじめに、今、私たちの実践が問われており、主権者として育ちあおうということが提起されました。

 

まず、憲法理念の実現の担い手はひとりひとりの主権者だということが語られました。

人々のたたかいなしには理念は実現せず、憲法にはいいことがたくさんあるが、それが全然実現しておらず、ギャップがあるということが指摘されました。

日本では、憲法を無視した政治が長年続いてきました。

特に国政、改憲政党である自民号が長年与党であったため、25条も9条も、国民主権も実現してきませんでした。

憲法どおりの社会でないのは、政治に憲法を尊重する意志がないからだと指摘しました。

しかも、与党が憲法「改正」まで主張しており、枝葉の部分ではなく、原則なところまで変えようとしています。つまり、自分たちにはめられた鎖を緩くしたいということです。

それがよくわかるのが2012年の自民党改憲草案であり、この草案では憲法は「国民が守るもの」と変えられており、これは立憲主義の否定です。また、自衛隊を国防軍とする、人権も条件付きにするなど、様々な改悪がされようとしています。

しかし、そうした政治家を選んできた国民の「責任」も当然あると指摘しました。

主権者が「憲法どおりに政治を行なう人」を政治家に選ぶという意識が脆弱だということです。投票率も年々低下しており、その背景には新自由主義があると述べました。自己責任論が強調され、政治の責任に目がいかないということです。

憲法学習会での反応は、「ふだん憲法を読む機会がない」が圧倒的に多いそうです。

日本の国民は憲法の内容や立憲主義が「染みついていない」のが現状であり、それは改憲政党が戦後ほとんどの期間政権についていたという状況にあり、国のリーダーが憲法を語らないためだと指摘しました。

私たちは皆、「あなたたちの人権感覚は本物ですか?」、「あなたたちは政治に参画していますか?」、「あなたたちは不断の努力をしていますか?」と憲法から問われていると述べました。

第12条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」と書かれています。この意味することは、自由や権利を維持するためにコツコツがんばるということであり、どのようにがんばるのかというと、おかしいことはおかしいと言う、労働組合に入って声をあげる、学習して主権者として成長することなどがあると指摘しました。

憲法や人権の学習は不可欠です。

知っていれば、それについて考えることができ、その理念に向かって進むことができると述べました。

中村美帆氏の著書『文化的に生きる権利-文化政策研究からみた憲法25条も可能性』の中で、「勤務先の文化政策学部の授業で、更に言えば非常勤先も含めて法学部以外の学生に対して文化権の話をする際、まずは『権利』や『人権』といった抽象的な概念・理念を知っていると何の役に立つか、という話から始める。概念と言ったときには、物事の概括的・抽象的な意味内容、理念といったときにはそこに『こうあるべき』という根本の価値判断も含む、といった話をした後で、虹の話をする」、「日本では虹は七色という理解が多数派だろうが、世界を見渡すと七色より少ない国も多い国もある。虹を七色に認識できるのは、『赤・橙・黄・緑・青・藍・紫』という色の名前を知っているからだ。抽象的な概念や理念も同様で、名前を知っていれば認識できる。言葉を知っていれば、それについて考えることができる。その言葉が望ましい方向性を指し示す理念であれば尚更、行き先を言葉で表現出来れば、それに向かって進むことができる」、「『権利』あるいは『人権』、そして『文化権』も、理念としてとらえるか概念としてとらえるかは人それぞれだとしても、言葉を知っていることで見えてくる世界はあるということは、伝えられればと思う」と書かれているそうです。

朝日訴訟は、結核で療養中の朝日茂さんが起こした裁判であり、人間裁判とも呼ばれています。生活保護基準が低すぎることを訴えたものです。

朝日茂さんは『人間裁判-朝日茂の手記』の中で、「私は、(これだ!これをやらなければならない。泣きねいりしていてはいつまでたっても救われない)と心の中で叫んだ。いままで、どんなに多くの人びとが法律のことを知らないために、低い生活保護基準に苦しめられ、そのまま泣きねいりしたことであろう。私たちの療友も、古い田舎の慣習にとらわれたり、家の面子(めんつ)にこだわったり、虚栄のため、受けられる保護も受けず、また、受けたとしても、ただ、お上からのお恵みとして受け取り、民主憲法で保護された当然の権利として考えていた人は少なかったのではなかろうか」と書いているそうです。

二宮厚美氏は『人間裁判』に収録されている「朝日訴訟が現代に問うもの」の中で、「憲法を暮らしに生かす運動は、憲法の諸条項・人権とそれに違反する現実とのギャップがあからさまになるとき、そのズレのなかから国民的高揚を迎える…。朝日訴訟の場合には、一方での憲法で保障された文化的最低限の生活保障原則と、他方での非人間的な劣悪きわまる生活保護基準の現実、この両者間のあまりの落差・矛盾・ズレが憲法を暮らしに生かす運動に火をつけたのである。21世紀の社会保障運動はこの運動視点に学び、一方での高まる権利水準、他方での劣悪・貧困な無権利的生活の現実、この両者のギャップに着眼した権利保障運動に取り組んでいかなければならない。朝日訴訟が示した社会保障運動の力の源泉は、この点にあると考えられる」と書いているそうです。

こうして、社会保障運動は個人のたたかいから組織的なたたかいとなり、労働運動などを中心とした国民的運動になっていったのです。

そして、私たちは、憲法の目的が政治が目指すものと考える人を多数議会へ送り出す必要があると指摘しました。

代表する人と代表される人の関係を、どう民主的なものとしていくかについては、両者のコミュニケーションの質が大事だと述べました。

代表の多様性も必要であり、どんな優秀な人にも盲点はあるので、性別、社会階層、世代、人種、宗教、地域など、多様な代表を送り出す必要があると指摘しました。

三浦まり氏は『私たちの声を議会に』の中で、「代表制民主主義への信頼を回復しない限り、政治への無関心や無力感が民主主義の基盤を掘り崩してしまうかもしれない。代表制民主主義を立て直す作業は、私たちが社会の根幹にどのような価値を据えるのかという問いにつながるものである。つまりは憲法に立ち戻り、憲法の価値を再発見し、そこでの規範を実現するための不断の努力が求められる」と書いているそうです。

カギは、両者のあいだの良質なコミュニケーションだと指摘しました。政治参加は選挙と選挙の間のコミュニケーションが大切で、私たちのニーズを政治へ伝える、政治力を規定するのは組織力だと述べました。

しかし、組織化されやすい利益、企業や業界団体の利益は、つねに政治的に優位に立ちやすく、組織化されにくい利益、子育て、介護、ケア労働などは排除されやすいと指摘しました。そのため、労働組合や市民団体など、身近なところの中間団体が大切であり、それらが政治家と私たちの間の経路になると述べました。

直接参加も大事であり、ニーズを代表する人に伝える意義があると述べました。

三浦まり氏は前出の著書の中で、「代表制民主主義においては、国家と個人のあいだに位置する中間団体が必要不可欠な役割を果たす。人びとと代表者との関係性および人びとのあいだの関係性の双方において、中間団体がその関係性を豊かなものにする」、「私たちと代表者とのコミュニケーションは、選挙という一時点だけで終わるものではない。選挙と選挙のあいだに、いつでも声を届けられる回路が存在し、常に双方向のコミュニケーションが成立し、負託の内容の見直しを図る機会が豊富に存在する必要がある」と書いているそうです。

 

次に、表現の自由とエンパワーメントについてが取り上げられました。

私たちのニーズ、要求を声に出すことの保障が、憲法21条「表現の自由」であると指摘しました。

表現とは、人にものを伝達するすべての活動であり、憲法21条では「一切の」として最大限の尊重を保障しています。そして、表現の自由は人間の尊厳そのものであると述べました。

青井美帆氏と山本龍彦氏の共著『憲法Ⅰ 人権』の中では、「自由に表現できることをあたり前とする社会を維持するための不断の努力を続けなければ、あっという間に息詰まる社会になってしまいかねない。何かを表現するということは、人間の本質的要求に深く結びついていて、また政治や社会を変える原動力でもある。『ペンは剣よりも強し』というように、表現活動が私たちの心や行動に与える影響は、とても大きい。そのため、昔から表現活動は、権力者による抑圧の恰好の対象だったのである」と書かれているそうです。

つまり、権力者による弾圧の標的になりやすいのが「表現の自由」だと指摘しました。

さらに、国民の意見を政治に反映させる自己統治の社会的価値も大きいと述べました。民主主義とは、ひとりひとりが声をあげることであり、社会の発展につながると述べました。

高橋和之氏は『立憲主義と日本国憲法 第3版』の中で、「集会・結社の自由を保障する理由は、第一に、それが個人の人格の発展に不可欠だということにある。個々人は様々な集会・結社に参加・帰属することを通じて自己のアイデンティティーを確立し、人格の形成・発展を行う。…第二に、集会・結社の自由は、政治的力を表明する手段として不可欠である。国民が政治過程に参加する場合、集会・結社によってその力を結集することが可能となるのである。この観点からは、現代のマス・メディアから排除された一般大衆にとって、集会・結社を通じての表現活動は重要な意味をもつ」と書いているそうです。

一人ひとりの主権者を主権者らしく成長させ、勇気づける役割を、集会や結社は持っていると指摘しました。

そして、組織や運動のなかで、個人はエンパワーメントされると述べました。

集団に「参画している」ことが認識を発展させ、自己効力感を育てるということです。

アリシア・ガーザ氏は『世界を動かす変革の力~ブラック・ライブス・マター共同代表からのメッセージ』の中で、「組織は、運動にとって決定的に重要な構成要素である。人々が居場所となるコミュニティを見つける場所であり、自分たちの周りで何が起きているのか、それがなぜ起きているのかと学ぶ場所である。そして、それによって誰が得をし、誰が害を被るのかを学ぶ場所である。組織とは、行動を起こすスキルを身につけ、法律を変え、自分たちの文化を変えるために組織化するスキルを身につけるところだ。私たちのコミュニティが直面する問題について何ができるかを決めるために、つながるところだ。運動に参加するには組織の一員である必要はないと主張する人もいるだろう。そのとおりだ。しかし、成功している持続的な運動の一員になりたいのであれば、組織が必要である」と書いているそうです。

そして、身近な場所で、「主権者」を育てる民主主義的人間関係をつくることが提起されました。

ケアがあれば表現することができる、「ケアは、私がこの世界で”場の中にいる”ことを可能にする」と述べました。

佐貫浩氏は『「自由主義史観」批判と平和教育の方法』の中で、「自分の意見の形成とその表明なくして課題学習は完結しない。問題にどう対処するかの確定された真理が存在せず、人間的な感覚と、他者への共感、そして既存の科学に依拠した知見や科学的精神や方法を最大限に働かせつつ、各人が未来社会を形成する主体としての責任で、勇気を持って未来を選び取らねばならないのである。そしてその選択の結果は、表現することによって、他者へと伝えられ、そこで他者との共感と協同を形成する力をためされるのである」と書いているそうです。

2014年5月3日の特定秘密保護法に反対する学生デモで行なわれた栗栖由喜さんのスピーチの中で、「この国のあり方とは、つまり、私たち自身のあり方、私自身のあり方のことです。作られた言葉ではなく、刷り込まれた意味でもなく、他人の声でもない、私の意思と言葉で、私の声で主張することにこそ、意味があると思っています。私は、私の自由と権利を守るために、意思表示することを恥じません。そして、そのことこそが、私の『不断の努力』であると信じます」と述べているそうです。

これは、自分の意見を言える場の中にいるからこそ出てくる言葉だと述べました。

心理的安全性とは、個を大事にするということであり、人権や民主主義と親和性が高いと指摘しました。

エドモンドソン氏による心理的安全性の定義は、「このチームでは率直に自分の意見を伝えても、対人関係を悪くさせるような心配はしなくてもよいと言う信念が共有されている状態」だそうです。

『週刊東洋経済』の2023年9月2日号の特集「心理的安全性 超入門」の中では、「組織内で自分の考えや気持ちを誰に対しても安心して発言できる状態。内部で安心感が共有される」、「ほかの人たちの反応に怖さを感じることなく、自分らしく活動していける状態」と書かれているそうです。これは憲法21条に通じると指摘しました。

社会の中で、自由にものが言えなかった時代もありました。戦争中、とくに第二次世界大戦中は、本音を言ったり、反戦の態度を示すことは非常に対人リスクを高め、不利益を招き寄せることが明確だったと述べました。結果、国内外で大きな犠牲が出たと指摘しました。

そして、現代でも政治的な対話、議論が身近な人でできない状況があります。例えば、「○○に政治は持ち込むな」や、「難しい話はしないで」と言われてしまうと述べました。

そもそも、自分の意見を率直に言う練習機会が少ないと指摘しました。

憲法的価値を大事にした人間関係のなかで、主権者として育ちあうことが大事だと述べました。第13条の「個人の尊重」、第24条の「個人の尊厳」は、心理的安全性に結び付き、安心して意見表明できる場づくりにつながると述べました。

佐貫浩氏は『危機の時代に立ち向かう「共同」の教育』の中で、「主権者性の実現のためには、その関係的空間が主権者性を『出現』させる質をもっているかが問われる。(中略)自己の思いを表現し、他者に伝え、共感しあい、議論し、共に生きることを求める民主主義が働くとき、そこに『出現の空間』が生まれ(中略)生きる場の主権者が現れるのである。そのとき1人ひとりは、生きる世界の矛盾や困難や課題性を感受し、それに応答して主体的に生き、成長する道を選び取るだろう」と書いているそうです。

さいごに、5回では憲法を語りつくせないと述べました。これからも様々な機会で憲法を学び、主権者として育ちあおうと呼びかけました。

 

以上で報告を終わります。