埼玉県消費者大会 記念講演「写真で伝える世界」 | 労働組合ってなにするところ?

労働組合ってなにするところ?

2008年3月から2011年3月まで、労働組合専従として活動しました。
現在は現場に戻って医療労働者の端くれとして働きつつ、労働組合の活動も行なっています。

あまり知られていない労働組合の真の姿(!?)を伝えていきたいと思います。

ロシア軍によるウクライナ侵攻に抗議し、1日も早く停戦し、ウクライナに平和が戻ることを願います。

また、ロシアによる核兵器使用の脅し、原発への攻撃は、世界を危険にさらす暴挙であり、決して許されるものではないことを訴えます。

 

2022年は、再起の年です。

総選挙での野党共闘の成果と不十分だった点をもう一度確認し、参議院選挙に向けて再出発し、深刻な医療従事者・介護従事者不足に具体的な対策を講じ、不合理な病床削減をストップさせ、憲法改悪を阻止し、差別やハラスメントのない職場をつくるため、行動し、声を上げることを提起します。

 

 

10月25日、埼玉県消費者大会にオンライン参加しました。

そこで行なわれた記念講演「写真で伝える世界 共に生きるとは何か」の概要をまとめます。

講師はフォトジャーナリストの安田菜津紀さんでした。

なお、今回は途中で視聴場所を移動しなければならず、不十分な点がありますことをあらかじめお断り致します。

 

安田さんは、まず、フォトジャーナリストは写真で意思表示をすると述べ、消費行動も意思表示の一つであり、銀行が核兵器産業へ融資していないかなど、次の世代にどのような社会を引き継ぐかを考えることを呼びかけました。

ウクライナ問題について取り上げるにあたっては、ウクライナから避難してきた家族に出会ったことを語りました。そのご家族はキーウで暮らしていましたが、爆撃が起こって避難することになり、列車に飛び乗って12時間も立ち通しだったそうです。3歳の子供には、「これは冒険なんだよ」と声をかけていたそうです。お父さんはモスクワで生活しているため、「それはフェイクニュースだ」と言って被害に遭っていることを信じてくれず、連絡を取りづらくなっているそうです。

安田さんは、戦争は身近な人の間に分断を生むと述べ、世界に目を向け、足下から何ができるのか考える機会にしましょうと呼びかけました。

フォトジャーナリストは知名度が低く、なり手も少ないそうです。写真を通して何が起こっているかを伝える仕事です。

安田さんがフォトジャーナリストになろうと思ったきっかけは、高校2年生の夏休みに「国境なき子どもたち」の友情レポーターとしてカンボジアに行ったことだそうです。「国境なき子どもたち」はアジアで教育支援を行なっている団体で、11~17歳の日本在住の子どもを友情レポーターとして各地に派遣し、現地の子どもたちの話を聴く取り組みを行なっているそうです。安田さんが出会ったのは「トラフィックド・チルドレン」、人身売買の被害にあった子どもたちだったそうです。

安田さんは、出会いを超える人を変えるものはないと述べました。伝聞だったものが、自分の友達が抱えている問題になるのです。誰しもが行ける国ではないからこそ、写真を通して出会いに近い感覚を持っていただきたいと考えているそうです。

日本は国際報道の少ない国ですが、ウクライナの情報は届いています。安田さんはウクライナの周辺国を取材し、ブチャから避難してきたカリナさんという方に出会ったそうです。カリナさんは銀行を定年退職した矢先に軍事侵攻が起こり、避難中に激しい銃撃にあって夫を残して逃げるしかなかったそうです。夫の遺体はブチャ奪還後に集団埋葬されていた場所から見つかったそうです。孫に残したものを聞くと、カリナさんは「平和な空を望みます。それさえあれば幸せに生きられるはず」と答えたそうです。

安田さんはこれまでも数々の紛争地を取材してきて、日頃から弱い立場の人が紛争地では不利な状況に追い込まれているのを見て来たそうです。少数民族であるロマは、様々な迫害にあってきました。ナチスのホロコーストで数十万人が犠牲になり、今でも厳しい状況に置かれているそうです。しかし、避難生活でこれまで交わってこなかったウクライナの人たちとロマの人たちのコミュニティ同士が触れ合うようになり、よい変化が生じているそうです。

避難所では復興市場ができてきており、日常を取り戻す活動が行なわれているそうです。しかし、電力が戦争で取られているため、避難者の人たちは冬が来るのが怖いと言っているそうです。生活者目線でどのように変えていくのかが問われていると指摘しました。

 

中東のシリアでは、1万6,000人が避難生活を送っているそうです。2011年3月に戦争が開始され、その混乱でイスラム国の支配が拡大しているそうです。廃墟になったラッカでは、爆撃がやんで家に帰っても、不発弾の危険があるそうです。

しかし、戦争が起こる前のシリアは治安がよく、世界中から旅行者、バックパッカーが集まっていたそうです。遺跡が多く、風景が美しく、人があたたかい国だそうです。

安田さんは、最初から戦場を呼ばれる国ではなく、最初から難民と呼ばれる人がいた訳ではなく、当たり前の生活があったのであり、それが突然壊されてしまうのが戦争の理不尽だと述べました。

サラちゃんという女の子は、病院の一室で家族と避難生活を送っているそうです。自宅に前で遊んでいた時に砲弾が落ちてきて、上の兄は亡くなり、下に兄は重傷を負い、サラちゃんは右足を切断、左足お骨が粉々になってしまったそうです。サラちゃんは、日本の人たちに伝えたいことはあると聞かれると、「私たち子どもは何も悪いことをしていない。だから、もうやめてとおっきい人たちに伝えてほしい」と答えたそうです。子どもたちには政府軍も反政府軍も関係なく、「おっきい人たち」と表現したのだということでした。

「おっきい人たち」とは、広い意味では「大人」であり、大人がどうしてこの戦争を止めることができなかったのかが問われています。安田さんは、大人の一人として、日本からどんなことができるか考えたいと述べました。

 

日本の中に視点を戻して、陸前高田の一本松の写真を映し出しました。陸前高田市にはかつて高田松原があり、それが津波でほとんど更地になってしまいましたが、一本だけ松が残りました。

陸前高田市は2011年3月11日に大津波に襲われました。安田さんの義理のご両親がそこで暮らしていて、義理のお父さんは高田病院に勤務して津波にあいましたが助かり、義理のお母さんは行方不明になってしまったそうです。

4月9日、約1ヵ月後に、9キロメートル川をさかのぼったところで、流されたガレキをどけたところで遺体が見つかったそうです。その時、2匹のダックスフントの散歩紐を握りしめていたそうです。後日、遺体を見つけてくれた消防団の人と偶然会うことができ、その時に犬の遺体も一緒に見つかったけれど、人の遺体を探すことを優先して置いてきてしまったことを後悔しているということを聞いたそうです。「今思うと家族だったんだよな。申し訳ないことをした」と謝られたそうです。

小学校の校庭につくられた仮設住宅では、60世帯が生活していたそうです。そこで、安田さんがシリアの取材をしてきたことを報告し、アラブの最北にあるシリアは冬になると気温が下がり、雪が降ることもあるということを話すと、仮設住宅の人たちが使わなくなった服を集めてシリアに送ってくれたそうです。自分たちが物資を受けとる側だったので、どんな風に梱包すればいいか熟知していて、受け取った人たちが使いやすいように仕分けしてくれたそうです。

中心になってくれたのが人生で避難は3回目だというおばあさんで、1回目は1945年に空襲で避難し、2回目は1960年のチリ地震津波で避難したそうです。おばあさんは、「大変だったけれど国を追いやられることまではなかった」と、シリアの避難民の人たちの方がもっと大変だろうと気遣ってくれたそうです。

同じく、支援物資を送る中心になってくれたのが自治会長とそのご家族で、娘さんは自分たちが世界中から支援を受けたので、今度は「恩送り」をしたいと言っていたそうです。

自治会長のご一家は、2019年の冬に災害公営住宅へ入居することができたそうです。

娘さんは、同年代に何を伝えたいかと尋ねると、「親の言うことを鵜呑みにしないこと」と答えたそうです。彼女は地震の時には校舎にいて、幼馴染の親が学校に迎えに来て先に帰ったそうですが、車ごと津波に飲み込まれて亡くなってしまったそうです。あの時、高台に行こうと一言声をかけていれば、と思ったそうです。いざ災害が起きた時、子どもも自分で判断ができなければならないのです。

娘さんは2022年3月に高校を卒業し、短大で保育を学んでいるそうです。

 

2022年6月に、11歳になったサラちゃんにも会うことができたそうです。彼女は簡易な義足をつけており、これからも成長に伴って義足を変えていく必要があるそうです。彼女は、自分たちを追い詰めているのは、これだけのことが起こっているのに世界は私たちを無視しているということだと言っていたそうです。

安田さんは、無視しない世界をつくるためには、消費者としてそれに加担していないだろうかという視点が必要だと述べました。世界の中で何が起きているかを知る必要があり、大切な人たちとそのことをわかちあってほしいと述べました。

最後に、安田さんも参加している「Dialogue for People」を紹介し、現地からの声を持ち帰るために支援をと呼びかけました。

 

以上で報告を終わります。