くらしの明日 日本が「孤育て」 になる原因(毎日新聞より) | 労働組合ってなにするところ?

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2008年3月から2011年3月まで、労働組合専従として活動しました。
現在は現場に戻って医療労働者の端くれとして働きつつ、労働組合の活動も行なっています。

あまり知られていない労働組合の真の姿(!?)を伝えていきたいと思います。

毎週金曜日の毎日新聞の連載、「くらしの明日 私の社会保障論」を今週も取り上げたいと思います。今回の記事については、基本的に納得しつつも、物足りなさを感じるというスタンスです。

引用部分は青で表記します。



くらしの明日 私の社会保障論

日本が「孤育て」になる原因  松田 茂樹 第一生命経済研究所主任研究員

毎日新聞  2011年2月4日(10面)


周囲の接し方、手助けにも差


 自分でしてみて、「子育てはしんどい」と感じた人は少なくないだろう。どうもわが国は子どもを育てにくい。内閣府の国際意識調査(05年)によると「自分の国は子育てしやすい」と感じる人はスウェーデンではほぼ10割、アメリカやフランスは7割前後だが日本は5割。2割の韓国は上回ったが、お寒い結果だ。なぜだろう。欧州諸国ほど手厚い子育てへの経済的支援や保育サービス、バリアフリー化された道路がないからか。

 実はもっと基本的なところにも理由はある。内閣府は08年に「海外で子育て経験のあるママ・パパ100人に聞きました」というインタビュー調査を実施した。回答者の多くは日本より他の先進諸国の方が子育てしやすいと答えたが、その大きな理由は「外出先で周囲の人が子どもに声をかけてくれる」「ベビーカーで移動するときに周りの人が手伝ってくれる」「子連れが邪魔者扱いされない」ことだった。もちろん、日本の脆弱な子育て支援制度の問題は挙げられたが、他者の接し方や手助けにも差があったのだ。


(中略)


干渉しないのは気楽な面もあるが、それが「子育て」を「孤育て」にしている。

 子育てに限る話でない。家族がいない者の孤独が社会問題化しているが、それは家族など近しい人以外の設定が少ない社会のためである。


 社会学では人と人のつながりや、それによって生み出される信頼や規範を社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)という。これが潤沢な社会では人々の生活はもちろん、政治や経済も円滑に営まれる。戦後日本は道路などのインフラ(社会資本)は整備したが、社会関係資本の整備をおろそかにしてきた。孤育ても孤独も生活を支えるこの資本不足が露呈した結果だ。

 日本が子育てしやすい国になるには人と人とのつながりが不可欠だ。せめて街で幼い子連れに会った時はほほ笑んで声をかけたり、電車やバスに乗る際に少し手を貸したりしてはどうだろう。莫大な予算で子育て支援を拡充するのは簡単でなくても一人一人の声掛けや手助けはすぐできるし、大きな支援になる。


社会関係資本


 人間関係の豊かさこそ社会の資本、ととらえる概念で、1990年代に米国の政治学者が広めた。コミュニケーションが密で他者を信頼できると思う人が多いほどボランティアなど市民活動が活発になり、子供の教育成果が上がったり、治安の向上、地域経済の発展につながると考えられている。



基本的に、書かれていることは尤もですし、「社会資本」としての子育て支援を整備するには時間がかかっても、「社会関係資本」としての子育て支援は一人一人の心がけ次第ですぐできるというのは間違ってはいません。現在の日本の家族だけで子育てをしようとしている状況を「孤育て」と表現した点も、新聞読者の目を引くものとして評価できます。

ですが、何か物足りない印象を受けるのは、”社会関係資本の充実は一人一人の心がけ次第”という結論に留まっていていいのか、という疑問がわくからです。言い換えれば、欧州諸国に比べて日本の社会関係資本が不足しているのは、単に日本人には一人一人の心がけが足りないからなのか、ということです。


日本人は欧州人に比べてシャイだとか、宗教観の違いからチャリティーの考え方が根付いていないとか、いろいろな理由付けはできるかもしれません。

でも、数十年ほどさかのぼってみれば、日本でも周囲の大人たちが自然に子育て支援をしていた時代がありました。その頃でしたら、町内で育っている子どもに対して大人たちが普通に声をかけ、悪いことをすれば叱りもし、おなかが空いているとお菓子をあげるといったことが自然に行なわれていました。お年寄りに対しても、しばらく姿が見えなければ様子を見に行くというようなこともありました。

つまり、日本でも社会関係資本が狭い範囲のコミュニティの中では充実していた時期があり、それが社会の変化によって失われていったと見なすのが自然です。そうした前提に立てば、現在の日本で社会関係資本を再び充実させるためには、一人一人の心がけを促すだけでは十分ではなく、社会関係資本が失われるに至った社会の変化に目を向ける必要があるという結論に行き着くと思います。


では、日本におけるどのような社会の変化が社会関係資本を失わせたかという点ですが、それは同様に社会の変化を経てきたにも関わらず社会関係資本が失われなかった欧州諸国と比較する必要があると思います。

まず思い当たるのは、欧州と日本の労働時間の差です。欧州では、資本主義の発展の過程で労働者の権利が確立していき、労働時間が生活時間や余暇時間を圧迫しないように規制することが制度化されてきました。一方、日本においては労働時間の規制は抜け穴だらけであり、過労死や過労自殺を引き起こすようにまで至っています。

時間の余裕があるかないは、他者に目を向ける余裕があるかないかを条件付ける最も基本的なものではないかと思います。自分に時間の余裕がない時に他者にまで気を配れる人というのは、よほど処理能力が高いか、よほど他者に対する共感力が高いかどちらかです。つまり、普通の人にはできないということです。

もう一つ思い当たるのは、社会福祉制度の充実です。

記事では、社会福祉制度の充実と社会関係資本の充実は別問題というスタンスがとられているようですが、社会福祉制度が充実している社会では、社会関係資本も充実しているという相関関係もあることがうかがわれます。

むしろ、社会福祉制度が充実していない国においては、お互いに助け合う社会関係資本の充実が必要とされるのに、実際はその逆で、社会福祉制度が充実している国では社会関係資本も充実しており、社会福祉制度が充実していない国では社会関係資本も不足しているのです。

これは、社会福祉制度が充実しているということそのものが、国が”私たちの国は人を大切にする社会である”というメッセージを送っていることになり、それが国民にも人を大切にする姿勢を醸成しているということではないかと思います。

つまり、人と人の助け合いを促すために社会福祉制度を削減することは逆効果であり、むしろ社会福祉制度の充実が人と人との助け合いを促すことになるのではないかということです。


結局、結論としては現在の政府の社会福祉、社会保障政策を批判することとなりました。(これ以上の説明は要りませんよね?)