「国民の生命を守る」とはどういうことか | 労働組合ってなにするところ?

労働組合ってなにするところ?

2008年3月から2011年3月まで、労働組合専従として活動しました。
現在は現場に戻って医療労働者の端くれとして働きつつ、労働組合の活動も行なっています。

あまり知られていない労働組合の真の姿(!?)を伝えていきたいと思います。

まず、お知らせから。
派遣村マニュアルが下記URLからダウンロードできます。


東京 春の派遣村アクション
派遣村実行委員会パンフレット「あたたかい春を迎えるためのマニュアル」

http://www.k5.dion.ne.jp/~hinky/hakenmura/hakenmura.pamphlet09haru.html



元BP@闘争中様からの情報提供で、次のような相談活動もあります。


http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/index.asp?cateNo=1&newsNo=158697

新潟プチ派遣村 5/2~5/6 労働相談、宿泊提供

(事務局:にいがた青年ユニオン)


http://mainichi.jp/life/edu/child/news/20090430dde041100053000c.html

働く女性のためのホットライン 5/7 (0120・787・956)

働く女性の全国センター(伊藤みどり代表)開設


http://www.kfb.co.jp/news/index.cgi?n=200905015

女性のホットライン・ふくしま 5/7から毎月一回電話相談


さて。少し前のエントリー、「海賊対処法を制定しようとする日本政府と、イラクでの人質に冷たかった日本政府 」の結びで、私は「私が知りたいのはその基準です。日本政府はそれをどのように説明するかです。それによって、日本政府が「日本人の生命」をどう捉えているかがわかると思います。」と書きました。

「その基準」とは、海賊対処では「日本人の生命」を守るために自衛隊を動かしたのに、イラクの人質事件では自衛隊を動かさなかった(撤退させなかった)という、その判断を下した基準のことです。


こういった疑問に対して、日本政府が整合性のある説明を行なう機会はおそらくないでしょう。

ですが、こうした「国民の生命」の危機に対する政府の態度、あるいは貧困に対する政府の対応、後期高齢者医療制度、障害者自立支援法などから見えてくるものがあります。

それは、政府が「国民の生命を守る」と言うとき、それは一人一人の個人の生命を守るということを指すのではないのではないかということです。

政府にとって「国民の生命を守る」ということは、日本人という集団を一定以上の数に保つこと、日本人という集団が少なくとも自分達が政権を執っている間は今の状態よりも衰えることがないようにすることを指しており、そのためには日本人という集団の一部が切り捨てられることがあっても構わないと考えているように、私には見えます。

そう捉えると、政府が海賊への対処には熱心でもイラク人質事件の被害者には冷淡だったことや、貧困問題に対する対処がその場しのぎ的であることや、後期高齢者医療制度で高齢者を差別し、障害者自立支援法で障害者を困窮させても恥じないことにも説明がつくのです。


政府というものが、国全体の維持ということを目的とする存在であると捉えれば、そういった判断基準を持つことにも合理性があるかもしれません。

しかし、政府がそういう存在だからといって、切り捨てられる側にされた人間に対して大人しく切り捨てられることを強制していいということにはなりません。切り捨てられる側にされた人間とて、政府がそのように判断したというだけで、一人一人が等しく権利を持った国民であることに変わりはないのです。国民の権利とは、政府によって与えられるものではなく、歴史的な経過の中で国民がつかみとってきたものであり、国民の”不断の努力”によって獲得され続けるものだからです。

むしろ、私たち国民は、政府という存在にはそういった傾向があるということを知ったうえで、一部を切り捨てようとする政府に対して歯止めをかける役割を発揮しなければならないのだと思います。



……こんなことは、権利とは何かということをきちんと考えている人たちにとっては必要のないことだと思うのですが、権利というものを深く考えずに憲法を論じようとしている人たちが少なからずいるのではないかと思ったので書いてみました。


それから、嘆かわしいことですが、当時の政府関係者の冷淡な態度やマスコミのバッシング報道を今も鵜呑みにし、イラク人質事件の被害者に対して悪し様に言っても構わないと考えている人たちが少なからずいるということもあります。

自分が切り捨てられる側に立つことは一生ないと考えている人たちはそのような態度を取り続けることを変える気にはならないのかもしれませんが、自分も切り捨てられる側に立つことがあるかもしれないという想像力を働かせることが少しでも可能ならば、そのような態度を取り続けることがどういった意味を持つのかも想像してみるとよいでしょう。