ETV特集「いま憲法25条”生存権”を考える」の感想 | 労働組合ってなにするところ?

労働組合ってなにするところ?

2008年3月から2011年3月まで、労働組合専従として活動しました。
現在は現場に戻って医療労働者の端くれとして働きつつ、労働組合の活動も行なっています。

あまり知られていない労働組合の真の姿(!?)を伝えていきたいと思います。

まず、お知らせから。
派遣村マニュアルが下記URLからダウンロードできます。


東京 春の派遣村アクション
派遣村実行委員会パンフレット「あたたかい春を迎えるためのマニュアル」

http://www.k5.dion.ne.jp/~hinky/hakenmura/hakenmura.pamphlet09haru.html



元BP@闘争中様からの情報提供で、次のような相談活動もあります。


http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/index.asp?cateNo=1&newsNo=158697

新潟プチ派遣村 5/2~5/6 労働相談、宿泊提供

(事務局:にいがた青年ユニオン)


http://mainichi.jp/life/edu/child/news/20090430dde041100053000c.html

働く女性のためのホットライン 5/7 (0120・787・956)

働く女性の全国センター(伊藤みどり代表)開設


http://www.kfb.co.jp/news/index.cgi?n=200905015

女性のホットライン・ふくしま 5/7から毎月一回電話相談




さて。昨日放映された、ETV特集「いま憲法25条“生存権”を考える ~対論 内橋克人 湯浅誠~」の感想です。

この番組は、日本国憲法第25条の歴史を振り返りながら、経済評論家内橋克人氏と年越し派遣村村長湯浅誠氏が対談するというのが大体の構成でした。


まず、憲法25条の提案者である社会生活学者の森戸辰男氏について。

日本国憲法制定までの経緯については映画「日本の青空」で観ましたが、森戸氏が登場されていたかどうか、残念ながら私の記憶には残っていません。なので、森戸氏が憲法25条の提案者であり、労働権も提唱した方だということは初めて知りました。(我々労働組合員にとっては大恩ある方だと言えますね!)

森戸氏はドイツでワイマール憲法を学び、そこから「生存権」を日本の憲法にも取り入れるべきと考えるようになったそうです。ワイマール憲法は、それまで人権の主流だった「自由権」だけでなく、国家が国民に「人たるに値する生活」を保障する社会保障を定めたもので、19世紀の資本主義の修正して国民の生活を改善するという意味合いがあったそうです。

森戸氏は、1945年11月に民間の組織である「憲法研究会」で憲法草案をつくる活動に参加し、国民主権や男女平等も含む「憲法草案要綱」を打ち出しました。それに森戸氏の提案により、「生存権」の条文が含まれていた訳です。その草案はGHQに資料として取り入れられましたが、出来上がった政府案には「生存権」は含まれていなかったそうです。1946年当時、社会党の衆議院議員になっていた森戸氏は、帝国憲法改正案委員小委員会において「生存権」を追加すべきであることを主張しました。委員長は幸福追求権があるので生存権は定める必要がないのではないかと疑問を呈しましたが、森戸氏は権利があっても生活安定を得られない人が多くいるという状況を改善しなければならないと主張し、粘り強く説得を行ないました。

その主張が採用された結果、日本国憲法は「生存権」を規定した第25条を持つに至ったのでした。この条文により、森戸氏は日本を平和的で文化的な福祉国家とする道筋をつくろうとしたのです。


しかし、現在において憲法25条はとても実現されているとは言えません。

内橋氏は、人々の努力によって修正された資本主義が、新自由主義や市場原理主義が政治の世界を席巻することによって元のむき出しの資本主義に戻ってしまい、自由は一人一人の自由ではなく、巨大化した資本の自由になってしまっているとおっしゃっていました。そして、日本において生存権が充分に満たされたことはなく、常に陽炎のように逃げてしまうものではあるが、常にそれを掲げてきたのだともおっしゃっていました。

湯浅氏は、実際の生活保護申請同行の経験を語り、今の社会は人間をつぶしていく社会であり、生存権を守るのが難しい社会であるとおっしゃっていました。


生存権を具体的に保障する法律として、1950年に生活保護法が制定されました。

当初、生活保護は一般勤労世帯の生活費の50%を保障するものでしたが、国の財政事情を理由に30%の引き下げられました。

そんな中、1957年、結核患者の朝日茂氏が、生活保護の基準は最低限度の生活を保障するものにはなっておらず、憲法25条に違反していると主張し、国を相手取って裁判を起こしました。いわゆる人間裁判、朝日訴訟です。1960年、東京地裁は「最低限度の水準は予算の有無によって決定すべきものではなく、むしろこれを指導支配すべきものである」とし、生活保護基準が低すぎることを認め、原告勝訴の判決を下しましたが、国は即刻控訴します。この裁判には患者団体だけでなく労働組合も協力するようになり、国民的関心を集めるようになってきました。生活保護基準は最低賃金制度とつながることから、労働組合も人事ではないと認識するようになったと、朝日茂氏の弁護人を務めた新井章弁護士は語っていました。

しかし、1964年、裁判継続中に朝日茂さんは亡くなり、養子の健二さんが裁判を引き継ぎました。そして、1967年の最高裁判決では、原告の死亡により裁判は終結しているとされ、原告の敗訴が確定してしまったのでした。

最高裁判決では、生存権についての意見が述べられていました。それは、「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は厚生大臣の裁量に任されており 直ちに違法の問題を生ずることはない」としたのでした。生存権の具体的実現については裁判所は何も口出しせず、行政にすべてを任せるという判断だった訳です。

その後も、生存権をめぐる裁判は行われましたが、裁判所は「憲法25条を具体化する措置は立法府の広い裁量にゆだねられ、裁判所が審査判断するのに適しない」とし、生存権の具体化に踏み込む判断を避け続けてきたのです。


1970年代からオイルショックを機に日本の高度成長には陰りが見え始め、社会保障の削減が始まります。1981年には国の財政赤字の解消のため、第2次臨時行政調査会(第2次臨調)が設置され、その答申は社会保障費の抑制方針を打ち出しました。厚生省は「生活保護の適正実施の推進について」という通知を出し、生活保護の窓口での対応強化を求め、新たな申請者についての調査を徹底し、調査に協力しない者に対しては申請を却下したり保護を停止するよう求めました。この通知の後、生活保護受給者はピークの1984年の147万人から10年間でおよそ6割減の88万人にまで減少しました。そして、1987年には札幌の母子世帯が、生活保護の申請を断られて餓死するという事件が起こりました。その後も、生活保護申請の却下による餓死や自殺は増加していきました。

司法は、生存権が保障されていない状況を、立法府や行政府がそのように判断しているのだから仕方がないとして放置してきました。

2001年に小泉内閣が誕生し、社会保障費の見直しが強化されました。生活保護の受給者は1995年を境に再び増加しており、国は2003年から生活保護基準の切り下げを始めました。また、規制緩和が進められ、2004年の派遣法改正では製造業派遣が解禁され、急速に派遣労働者が増加していきました。現在は、年収200万円以下の勤労者は1000万人を超え、働いても生活ができないワーキングプアや派遣切りが社会問題化し、生存権をどのように保障していくかが改めて問われています。


湯浅氏は、高度経済成長期に貧困は忘れられてしまったが、高度経済成長のとば口だった1957年の朝日訴訟のような社会問題が50年経って再び出てきて、私たちはそのことをもう一度新しい視点、新しい社会的背景で取り組まなければならなくなっていると指摘しました。

それを受けて内橋氏は、国民の生存権は、それを保障する国家の義務と裏腹にものであり、国家が義務を果たさなければ権利は実現しないが、今は生存権は国の財政状況によって左右されるものとなっており、それでは国民の権利としての生存権は保障されていないということだと述べました。

湯浅氏は、現在の生活保護受給者は161万人に増加しており、これは少子高齢化で高齢者の受給者が増えたからだと一般には言われているが、実際はワーキングプアや派遣切りに遭った人が相当入っており、もう一度労働と生存をセットにして捉え直し、朝日訴訟で労働組合の人たちが生活保護基準が最低賃金にも連動していることに気づいて大きな運動になっていったが、今もそれと同じ状況になっていると述べました。つまり、セーフティネットとは単に労働から弾かれた人たちの生活を保障するためのものではなく、労働条件の底抜けを止めるためのものだという認識を社会に広げていかなければならないということです。しかし、現実に起こっていることは、生活保護受給者に対するバッシングであり、働いている者よりも働かない者が多くをもらうのはおかしいと叩かれ、生活保護基準を引き下げる圧力になってしまっています。湯浅氏は、生活保護基準引き下げを止めるための運動をしていますが、保護基準が厚生労働大臣の裁量となっているままでは駄目で、国会で審議されるべきであり、生活保護法第8条は改正されるべきだと主張していました。

内橋氏は、湯浅氏が著作で「すべり台社会」と表現しているように、今はすべての人が貧困の当事者となり得る状況であるが、多くの人がそのことに気がつかずにいると指摘しました。その原因は、日本は企業福祉によってこれまでは社会保障が保たれてきたからであり、本来はそれに平行して一般社会における社会保障制度も整備されていかなければならなかったが、それがされないままで経済不況によって企業福祉が放棄され、その外側には何もセーフティネットが存在しなかったという状況になっていたということです。

内橋氏は、社会保障を飛行機の翼についているエンジンにたとえ、素人目には重いエンジンを外した方が速く少ない燃料で飛べると思えるが、そのエンジンを外してしまえば飛行機は失速してしまうのであり、これまで恐慌の度にエンジンは強化されてきたが、1990年代には企業も国もそのエンジンを捨て去ってしまおうとし始め、他の誰もそのエンジンを維持しようとしていないと表現しました。

捨て去るということと関連して、湯浅氏は、駄目な奴は捨てればいいとする新自由主義は実は非効率なのではないかと述べ、それは人間の生存のコストを計算に入れていないからだと指摘しました。新自由主義によって職場から切り捨てられた人にも生存のためのコストは掛かるし、その人が働き続けられれば結婚して子どもを育て、社会を引っ張っていく存在になれるのに、その道をどんどんつぶしていって、コストが掛かるだけに存在に追いやっているのは、実は非効率なのではないか、という問題提起です。


対談の間に、4月の春の派遣村の様子が紹介されました。

院内集会も開かれ、政府・与党は第2のセーフティネットの構築することを約束し、野党は強調して派遣法改正案を提案することを約束しました。

そして、春の派遣村には朝日茂氏の養子の朝日健二さんもボランティア参加している様子が紹介されました。朝日健二さんは、あの当時の社会の厳しさが今再現されているようだとおっしゃっていました。


内橋氏は、派遣村がこの先、国の構造を変革する力になっていけるのだろうかと湯浅氏に尋ねました。

湯浅氏は、生活できなくなるのは自分の努力が足りないからだと主張する人はいなくならないだろうし、一方に、生活できなくなるのは社会に問題があるからで、生活できなくなった人たちを痛めつけることは社会を弱くすることだと主張する人たちもいて、その綱引きはずっと続き、今はこちらに綱を引っ張りこめている状態だが、必ずゆり戻しはあるだとうと答えました。そして、今の状況が国を変えていく第一歩なのか、それとも緊急事態の対応であっていずれまた元に戻ってしまうのかはわからないと述べました。

また、湯浅氏は第2のセーフティネットについての懸念も述べました。失業保険と生活保護の他に第2のセーフティネットをつくるという話が出ているが、これがアメリカ型になると貧困は罪であるという発想に基づいて、生活保護から人を排除し、劣悪な労働条件で懲罰的に働かされるというものになりかねないという懸念です。社会の認識が全く変わらないままで、今が大変だからということでセーフティネットが整備されていくと、「どうしてあいつらだけ」という圧力が高まって、もっと厳しくしなければいけない、もっと懲らしめなければならないという方向に向かってしまうのではないかということを湯浅氏は案じているのです。

内橋氏も、19世紀的な貧困は罪であるという救貧思想では、貧困者を厳しい条件で強制労働をさせるという方向に向かってしまったが、それに対して社会的批判が起こり、20世紀には貧困は個人の責任や個人の怠惰は関係なく社会のひずみ、構造がもたらしたものであり、貧困は社会全体の責任であるという考え方が広まったのであり、そういう中で日本だけがそれに逆行して現在のように貧困は自己責任であるとしたり、懲罰的な適用の仕方をすると、日本は監獄社会になってしまい、そのことによる社会的マイナス、社会的費用負担はもっと大きくなると述べました。

湯浅氏は、活動家をつくる学校を始めたとのことで、海外では「Activist(活動家)」は普通のものであり、日本でも活動家に対するイメージを変え、問題意識を持って声を上げるための活動のノウハウを知っている人を増やさなければならないと述べていました。世の中がおかしいということを主張できずにフラストレーションを溜めていくとそれは自分を傷つける方向でしか発散できなくなり、リストカットや、例外的には秋葉原事件ようなことが起こってしまうが、そうではなくて、市民としての正しい不満の言い方、怒りの出し方があるのだということを伝えていきたいということです。

内橋氏は、今こそ憲法第25条の理念を実あるものにするための運動を広げていくべき時であり、自分では「共生経済」という考え方を提唱しているそうです。共同、連帯、参加に基づく共生セクターを立ち上げるためには、基本的な生存に必要なファクターFoods、Energy、Careをある一定の地域で自給できる「FEC自給権(圏)」を形成するという考え方だそうです。

湯浅氏は、そういった自給圏を自主的に守っていこうとするのが自分が考える活動家であり、活動とは市場原理主義にさらされない場、居場所をつくることであり、それをつくることにたくさんの人が参加していくことで社会には独自の次元がつくられ、国家や経済だけに飲み込まれずに人が生活できる場が増え、企業や政治と緊張関係を持ち、企業や政治をよくしていくというのが社会が本来あるべきだと述べていました。そして、生存権とは、単に個人が最低限生きていければいいということではなく、経済生活が人間たるに値する生活であることを要求し、そういう社会をつくるのだということなのだと捉えられれば、もっと生きやすい社会になるのではないかと述べていました。

最後に内橋氏は、生存権がなぜ今最も重要なテーマとなっているかというと、金銭だけではなく、理念として掲げるもの、国を新たにつくり直す原点であるからであり、21世紀の時代的テーマであると述べていました。



……何だか、感想というよりもあらすじになってしまいましたが、こんな感じの番組でした。

憲法記念日にふさわしい内容だったと思います。